鹿島鉄道・栗原電鉄を惜しむ駆け足紀行 後篇
この日は廃止を翌日に控えたくりはら田園鉄道(旧栗原電鉄)に乗ることが主な目的です。
早朝5時台に起き出して宿を出ます。と、道路のアスファルトが雨に濡れています。この段階では小降りでしたが、生憎の天気だなあと思いつつ6時発の東北線始発に乗って、栗原電鉄改めくりはら田園鉄道の始発駅である石越に向かいます。混雑を見越して早いうちに訪れ、ついでに帰途に福島交通でも乗ろうという算段で、思い切って早く出てきたのです。
始発の下り東北線の車内はやはり空いていましたが、ちらほら見える乗客の中にはやはり同好の士と見受けられる方々が。
一時間ほどで石越駅に到着。前篇にも書きましたが、小生は東北地方に来たのは中学生の時以来で、この区間の東北本線に乗ったのは中2の夏から十数年ぶりということになります。その時、車内から栗原電鉄(当時)の電車を見た覚えはありますが、残念ながら乗ってはいませんでした。まあその代り、というわけでもないですが、今は旅客輸送を廃止した小坂精錬の旅客列車にその時は乗ったのですが。
というわけで石越の駅に初めて降り立ち、駅舎を出てすぐ目の前にあるくりはら田園鉄道の石越駅に向かいます。雨は一層激しくなってきました。下の写真はクリックすると拡大します。
(この写真は帰途に撮影したものです)
始発駅でも石越は駅員無配置になっており、駅舎内部の告知を見ると、近所の床屋が一部業務の委託を引き受けていたようでした。次の写真もクリックすると拡大表示します。
元々この鉄道は軽便鉄道として作られ、細倉鉱山の功績搬出に活躍しましたが、敗戦直後の石炭不足の時期に電化され(当時日本の電力は大部分水力発電だったので、地域によっては石炭より動力が得やすかった)ました。ところが鉱山が閉山になって経営が悪化し、地元の自治体が出資する第3セクターに移管されて社名もくりはら田園鉄道に変わります。この時に経費削減のため、電化をやめてディーゼルカーを導入するという、日本では比較的珍しい(名鉄のローカル区間などに例があり、また最近は他にもあるが)改革を行いました。アメリカの鉄道では、蒸気機関車から20世紀初頭に電気にしたものの、二次大戦後安い軽油を使ったディーゼルに切替えた、なんて例は結構あるようですが。
話を戻して、その単行のディーゼルカーに乗り込みます。以下の写真はクリックすると拡大します。
上の写真をクリックして見ていただくと、車体側面に掲げられた惜別の横断幕に半ば隠れていますが、何やら児童画が張ってあるのが見えるかと思います。拡大した写真を以下に示します。クリックするとこれも大きく表示します。
それにしても、さとう宗幸氏って『青葉城恋唄』の一発屋だとばっかり思っていたら、実は宮城県では今でも充分有名人だったんですね。ご当地ソングのメリットはこんなところにも。ウィキペディアの「OH! バンデス」の項目を見ると、「宮城県のローカル番組ではかなりの人気番組であり、常に高視聴率をキープしつづけている」のだそうで、さとう氏に関する見識を改めました。
話を戻します。
先ほど揺れのため車内で撮った写真がぶれた旨を記しましたが、くりはら田園鉄道の線路の状態はあまり良くはありませんでした。今までに小生も幾つかローカル路線に乗り、相当に酷い揺れも経験してきましたが、その中で最悪ではないにせよかなり良くない方のように感じます。少なくとも昨日の鹿島鉄道よりはよく揺れました。
列車は揺れながら進み、若柳駅に到着します。この駅は栗原電鉄の本社があった駅で(くりはら田園鉄道になっても同じと思いますが)、電化時代の電車がそのままに転がされています。この駅は駅員がいて、タブレット交換を行います。タブレットとはなんぞやの説明は面倒なので、ご存じない方はお手近の鉄道趣味者にお問い合わせ下さい。要するに列車が一区間に一本しか走らないようにする保安装置で、昔は広く使われていましたが、最近は自動化が進んでほとんど目にしなくなりました。この方式は人間が操作する必要があるため、列車交換をする駅では必ず駅員を配置しなければならない(切符売るだけなら委託でいいけど、信号やポイントの操作では許されない)のが、近年急速に消えていった理由です。小生も以前幾つかの鉄道で目にしてきましたが、久しぶりに見た風景でした。
若柳の駅では結構な乗車がありました。鉄道趣味者ではない利用者、つまり高校生らしき姿も見えます。春休み中でなければ学生が大勢乗ってきたのかもしれません。
この列車にはNHKのクルーが乗り込んでいて、取材に当たっていました。取材陣もやはり取材をするなら元々の利用者の声を拾いたいのでしょう、早速高校生にインタビューをしていました。
ちなみに同じ車内に、やはり高校生か、或いは中学生かもしれないと思うのですが、女の子も乗っていました。NHKクルーはそちらは取材していなかったようですが、どうしてだったんでしょうね。やはり彼女がジャージ姿だったから? でもこの日の天候を考えれば、それは賢明な選択だったと思います。
列車は田畑が広がるのどかな風景の中を通り過ぎ、大岡駅の手前で新幹線の高架橋をくぐり、沢辺駅で上り列車と交換します。更に列車は栗駒駅を経て、山の中へと曲がりながら登っていく感じです。トンネルもありましたが、中は素掘りだったのをあとでコンクリートの柱を入れて補強したような感じでした。地元の方や鉄道マニアが途中でそれなりに乗り降りしますが、やはり小生含め多くの人は終点の細倉マインパーク前まで乗り通したようです。
ディーゼルカーは、かつての細倉駅構内跡を通り過ぎて、新しく作られた細倉マインパーク前駅に到着します。一時間弱ほどの行程でした。天気は一層悪くなり、雨は標高が上がったせいなのかみぞれ交じりの雪に変わっています。
折り返しの時間は余りありませんでしたが、できるだけ周囲を見て回ります。
細倉マインパーク前駅は、元々鉛や亜鉛の鉱山だった細倉鉱山が閉山した跡地に作られた観光施設である細倉マインパークに連絡するためにできた駅です。鉱山があった頃は、旅客輸送は細倉駅までで、そこから鉱山まで貨物線が延びていました。その細倉駅の跡地を写真に撮ります。この写真もクリックすると拡大。
同じ地点から反対を向いて、細倉マインパーク前駅の方を一枚。これもクリックすると大きくなります。
駅の反対側は、当然終点なので車止めで線路が途切れているのですが、そこに電気機関車と貨車、そして腕木式信号機が保存されています。この写真もクリックすると拡大します。
慌しく駅周辺を観察して、折り返しの列車に乗ります。前篇の鹿島の時同様、今度も前方の見晴らしの良い場所に陣取ることができました。もっとも、雪の降る寒さに窓は曇ってしまい、外の様子はあまりよく見えませんでしたが。ワイパーの付いていない貫通扉の窓は、雪がくっついて前方がほとんど見えなくなっていました。
同じ様な場所で前方を見ていた一人のおばあさんがおりました。こういった路線では、高校生とご老人以外は鉄道趣味者と相場が決まっており、また昨日の鹿島鉄道同様別れを惜しむ地元の爺さん婆さんが乗りにきている場合が多いのですが、このおばあさんは小生が仙台から石越まで乗ってきた東北線の車中でも隣の席でした。NHKのクルーもてっきり地元の人だと思って往路で取材を試みたりしていたのですが、つまり、このおばあさんは地元の人ではないのに、くりはら田園鉄道に乗りに来ていたのです。
で、この時にちょっとそのおばあさんと話をしたのですが、はるばる東京からやってきたとのこと(人のこといえませんが)。もしかして、酒井順子氏のような鉄道好き女性は高齢者層に潜在的な人口があったのかと内心驚きました。ご当人曰くは「古いものがなくなりそうだと聞くと見に行く」ということで、これだけ聞くと鉄道とは必ずしも限らないようですが、最初にそういったなくなるものを追いかけたのは? と伺うと、1997年に廃止になった信越本線の碓氷峠との由。廃線以外では何か? と尋ねますと、旧国鉄本社ビル(現在は再開発されて丸の内オアゾ)が解体前に一般公開した時に行ったとの由。うーむ、やっぱ鉄道ネタだ。
栗原に来たのはしかし、ほんの数日前に旦那さんがラジオを聞いていて、「くりはら田園鉄道とやらが今月いっぱいでなくなるらしいから、行ったらどうだ」と教えてくれたからだそうです。つまり鉄道趣味的情報に通暁しておられるというわけではないようですね。それはそれとして、しかし小生が思ったのは、このおばあさんの旦那さんは、良い方だなあということでした。こういうところが夫婦長続きの秘訣か!?
とまれ、酒井順子氏のような人がこれから増えるかどうかは分かりませんけど、なくなりそうなものを通じてでも近代の歴史に関心を持つ人が増えるとすれば、まあ結構なことだと思います。少なくとも、「モノ」と結びついた歴史への関心は、思弁的なものから入る関心よりも、不毛な妄想に至る危険性が少なくて済みそうに思われるからです。
おばあさんは栗駒の駅で降りていきました。この駅周辺は見るところも食べるところもありそうだから、とのこと。小生も折角なので、それほど時間に余裕はありませんが、どこか途中の駅で降りようと考え、有人駅で昔の電車の廃車がそのまま残っている若柳で下りようと考えました。
この線の有人駅は若柳・沢辺・栗駒の三駅で、真ん中の沢辺駅で上下の列車が交換するというダイヤに大体なっています。その沢辺駅で、先ほど触れたタブレットや腕木式信号機が現役で稼動する様を見ることができました。
曇ったガラス越しに撮ったので非常に分かりにくい画像ですが、以下に示します。沢辺駅手前の信号(多分駅構内に列車が入って良いかを表示する場内信号機)の動作です。
今となっては貴重な光景を見届けることができました。
電化をやめて、栗原電鉄からくりはら田園鉄道に衣替えしたこの路線(略称は「くりでん」のようですが、これは以前の「栗電」と、改称後の「くり田」と、どっちでも通じるようにしてあるのでしょうか。最初「田園鉄道」というセンスに正直疑問を覚えたのですが、こういう理由だったとすればなかなか面白いことと思います)ですが、上の写真に示したように架線を剥がしても架線柱はそのままで、電化の時代の雰囲気をとどめていました。しかも段々と細倉へ近づくにつれ、架線のうちトロリー線は剥がしてあってもカテナリー線は残されていて、ますます電化路線ぽくなり、終点の細倉附近では架線は全くそのままのようで、電気さえ流したら今でも電車が走れそうな様子でした。(注:トロリー線とはパンタグラフと接触して電気を供給する線、カテナリー線はトロリー線を吊り下げている線。ちなみに「架線」は、正しくは電車線路という)
で、そのような中途半端な撤去跡が、他にもあったのです。これも車内から撮ったものであまり綺麗ではありませんが、ご参考までに。
そんなこんなで沢辺を過ぎ、若柳駅に列車は着きました。小生はここで下車し、駅構内に放置されている車輌を見て回ります。くりはら田園鉄道は、沿線風景や駅の施設は長閑さ満点ですが、車輌の方は近年電化をやめてディーゼルにした関係であまり見るものはありません。そこで折角なので、古い電車が保存(というより放置というべきか)されているのを見ておこうと思ったのです。小生、ディーゼルカーより電車の方が好きなものですし。もっとも栗原電鉄自体、戦前は軽便鉄道だったのを戦後国鉄と直通できるように改軌しているため、そうえらく古い車輌があるわけではないのですが。
拙いものですが何枚か。
M153とかいうとなんだか米軍の兵器の名前みたいですが、Mというのはモーター付の車輌を意味し、15とか18というのは車体の長さを示すそうです。最後の数字が製造番号で、随分大雑把な番号の付け方ですが、まあ車輌の少ない地方私鉄ならそれで充分だったのでしょう。
駅の反対側から撮った写真です。今日帰途に寄る予定の福島交通から来た電車が見えますが、この電車は同形がもう一両あって、その車輌がなんと最後のお勤め(?)に駆り出されているのです。その模様を写したのが以下の写真、これはクリックすると拡大します。
仕様書の話が出たついでに書いておきますが、この鉄道の廃止に伴って会社に保存されていた書類の散逸を防ごうという事業が既に行われており、近代史の研究者が何人かちょくちょく本社まで調査や整理に来ているそうです。(※追記:その関係で、この遺産を地域活用に生かそうという事業のために栗駒市を訪れて、奇禍に遭われたのが岸由一郎さんでした)
その本社も若柳の駅のそばにありました。
雨のみならず風も結構強くなって春の嵐の様相となり、大変寒く感じられたので、駅舎の中に逃げ込みます。待合室ではストーブが焚かれています。この駅舎は創業当時とあまり変わっていない由で、確かに壁に作りつけられた木のベンチや、木製のままの窓枠など、なかなか良い雰囲気です。沢辺などの駅舎も全く同じ設計図で作られていたのだとか。
駅舎の中は多くの人で賑わっていました。鉄道趣味者が多いのは勿論ですが、家族で乗りに来た地元の方も多いようです。孫を連れたご老人の姿も見受けられ、この状況は鹿島鉄道と似ていました。中には本当に用事で(薬局に行くのだとか)乗ってきたお婆さんもいて、NHK取材班(彼らは自動車を併用して沿線を回っている模様)がこれまた取材を申し込んでいました。
そんな駅舎の様子を。クリックすると拡大します。
この写真でも、「ありがとうくりでん」と地元の子どもたちによると思われる飾り付けがありますが、駅舎の中になかなか興味深い、子どもの手による作品がありましたのでちょっとご紹介。
子どもついでに、若柳駅にあった「くりでん文庫」という、乗客などが持ち寄ったのであろう本のコーナーがあったのでこれも撮影。この写真はクリックすると拡大します。
さて、ここら辺で記事が長すぎて一回に投稿できる長さを超えてしまったので、若柳駅を出発してからの話と、鹿島鉄道関連のおまけの話は終篇に廻します。