妄想の対象としての「メイド」について思うことなど(1)
ですが、その後「制服学部メイドさん学科」の鏡塵さまが、この鼎談に関連した新たな記事(『「これがWNF(ワールドネコミミフェデレーション)のやり方か――!?」』)を執筆されており、その内容を興味深く拝読すると共に、思うところも些かありましたので、これは一筆と思っておりました。が、その後所用がいろいろあったり、エロマンガの話とか鉄道旅行記とか、別件の記事に力を注いだりしているうちに延び延びになってしまいました。
そんなこんなのうちに、先月末に色々と記事を書いたエロマンガ方面では、イベントの「プロデュース」をした永山薫氏がご自身のブログで「ここ最近、メイドについて考察中」だそうで(そういえばイベントの時にはメイドの話は出なかったなあ)、ますます何か書きたい意欲が高まり、あまつさえこんなネットニュースまで見つけてしまっては。
アキバ経済新聞
「メード普及を目指し「日本メイド協会」設立-「メイド検定」実施も」
あまりのツッコミどころの多さに、慌ててリンク先を見るに
日本メイド協会
なんともはや。
とりあえず一言で評すれば、「『ブームから文化』への昇華」などという表現からは、所謂オタク文化の文脈において「メイド」に対して抱いているものが変態的妄想であり、だからこそ面白いのだという認識はあんまりなさそうだなあということです。この辺については、以前書いた「メイド」喫茶を「風俗だ」と批判するオタクの言い分を分析した拙稿とも関ってくるのではないかと思いますが、自らの妄想を妄想であることの意義と限界とを把握しないまま、だらしなく語って商業主義的な波に乗っかっていくことに対し、小生は強い懸念を抱いて・・・は別になくて、端から見ているとバカバカしくて面白いなあとは思いますが、まあとにかく、「メイド」に寄せられる様々な妄想とその発展の系譜や過程を考えてみることには一定の意義はあるのかなと思います。
更に最近の「メイド」がらみニュースでは、アキバblogさんの「駅前羞恥プレイ メイドコスプレで四つんばい」という記事が相当に話題を呼んだ模様です。これに関しては、当ブログにも時折コメントしてくださるMarkWater氏が、ご自身のmixiの4/17付記事コメント欄にて、左手首に包帯をしている=リストカットの可能性を指摘されており、その鋭い観察眼には胸を突かれました。
で、この件に関しては、「痛いニュース」とかいろいろ見てみると、所謂「オタク」の方々からは概して非難されているようです。小生思うに、これは「メイド」に寄せる妄想のパターンとしては、今となってはもはや古典的な、90年代以前からあるようなもの――SM文化のそれ――であると考えられます。しかし、それが20世紀末から現在に至る、「萌え」という言葉としばしば結びついて語られるような、「オタク」の現在の主流とは異なってしまっているために、現在ではオタクな方々の批判を浴びることとなったのでしょう。
ですが、以前拙稿で検討した如く、SM文化のそれとオタク文化のそれとが全く対立するようなものでもなく、根底のところでは案外繋がっているところもあるように思うのです。
そんな「メイド」を巡る種々の妄想が渦巻くこのご時世に「日本メイド協会」なんてのが設立されたのは、種々の妄想のなかでの「正統性」を確保することで、向後の「メイド」を巡る商業的シーンにおいて優越的な地位を獲得しようという戦略なのでしょうか。小生は、「メイド」のここまでの発展の強みは、様々な妄想を幅広く受け入れてきたことにあると思いますので、正統性争いは長期的には「終わりの始まり」ではないかと思わなくもありません。しかしまあ、その作戦の可否は措いておいても、一つこれを機に「メイド」と妄想について思うところをつらつらと述べてみたいと思います。
思いますが、まずえらく長文になりそうなので、また暫く忙しいし、今日のところは序文である以上にとどめて、以後はのんびり気長に長期連載記事として執筆予定。
・・・ってだけなのも何なので、最近の小生の「メイド」に関する妄想をここで披瀝。
それは何かというと、
メイドとはワーキングプアである。
社会経済史的にはそんなに間違ってない筈です。だって「働いても豊かになれない」ことは普通だったわけで。
で、世に(秋葉原方面に)溢れる「メイド」を、「ワーキングプア」に置き換えてみると、妄想ダダ漏れで楽しいですよ。
・ワーキングプア喫茶
・ワーキングプアカフェ
・ワーキングプア服
・ワーキングプアリフレ
・ワーキングプアヘアサロン
・ワーキングプア雀荘
・ワーキングプアロボ
・花右京ワーキングプア隊
・完全ワーキングプア宣言
・仮面のワーキングプア
・会長はワーキングプア様!
・ワーキングプアと大きな剣
・Working poor iN HEAVEN