「同人誌と表現を考えるシンポジウム」見学記 感想篇
馳せ参じた「革命的非モテ同盟」の古澤書記長のお姿も
まず最初の率直な感想としては、パネラーが多すぎて話が薄まってしまったというか、話をもっと聞きたいのに充分時間がなかったという感があります。そもそも3時間のシンポジウムで、司会含めて13人ものパネラーがおられたわけで、やはり人数が多すぎたのだと思わざるを得ません。あまり適切な比較ではないかもしれませんが、ロフトプラスワンのイベントは3人(もっともしばた氏と永山氏が語りまくったため、伊藤氏が割を食ってましたが)で2時間半でしたので、あの充実度と比べると薄いなあと思ってしまうのは仕方のないところです。
ただ、シンポジウムの中で、「一般へのアピール」ということを強調していましたし、またマスコミ関係者も来ていたということからすれば、同人に関係する関係者や識者が一通り集まって、意見の集約を図りそれを一般に公開するということは、いわば戦略的な意味としては少なからずあったということで、それはそれで合目的的だったのかもしれません。
もっともそうすると、本文中でもちょっと書きましたが、「やおい」に詳しい人、いわば「腐女子」代表とでもいうべき人がいなかったのは些か残念です。同人(と性表現)に関しては、やおいの地位は相当に大きいはずですが、パネラーが一人を除いて男ばかりで、さらにレポ中には書きませんでしたが、パネラーが「やおいは分からない」ともらす一幕もあり、やはりこれは望ましくなかったと思います。
シンポ中、「修正」の話が相当の時間をかけて議論されましたが、コミケ基準の性器への修正などの話を聞いていたとき、小生の脳裏をよぎっていたのは、18世紀英国で書かれた近代小説史上初のエロ小説『ファニー・ヒル』の訳本の巻末解説でした。今部屋がカオスなので本の本を引っ張り出すことが出来ないので記憶に頼って書きますが、この本を書いたことで投獄された著者のジョン・クレランドは、一緒に捕まった印刷業者の釈放を訴えてこう述べたそうです。
「印刷業者に罪はありません。彼らは原稿を見て、卑猥な四文字語がなかったのでそのまま印刷しただけなのです」
で、クレランドは『ファニー・ヒル』を書くにあたって、性器を直接表記することを避けて、思いつく限りの比喩表現を使い、訳本の解説者(英文学者の海保真夫教授)曰くはそれは五十種類にも及んだそうで、ここまでやるとかえってコミカルな感すらするけれど、それはやはり摘発対策だっただろう、というようなことだったかと思います。
いやまあ、何が言いたいのかというと、「修正」というのは今も昔も形式的でどこか滑稽な感じもするなあ、という外野の勝手な印象です。
もちろん、運動方針としては、同人誌業界が「自主規制」にきちんと取組んできたということをより広くアピールすることは重要であろうと思います。それが正攻法でしょう。
その方針はそれとして、ただ、ではシンポジウムで明らかになった「修正」の基準というのはどうかといえば、市川氏が世の中の「流れ」ということを口にされたことに象徴されるかと思いますが、それは相当に曖昧なもののようです。なので、規制派にそこを突かれる危険性がないとはいえないし、また果たして自主規制がどれほど効果があるのかと、言い換えれば自主規制しているという言い訳をするためにやっているのではないかという、そのような実も蓋もない言い方も出来てしまいます。
もちろん最後に坂田氏が指摘されたように、このような基準はあまりに明確で動かしがたいようなものにするよりも、曖昧であった方がむしろ便利であることは、間違いないだろうと思いますが。表現の場に法が介入することによって縛りを固めることによって、伊藤氏の言葉を借りれば「表現が痩せる」という事態は、まったく容認できるものではありません。
今回のシンポジウム中でもっとも小生の印象に残った言葉は、伊藤剛氏の「利害の調整」という言葉でした。規制問題を倫理や道徳の問題ではなく、あくまでも利害の調整と捉える合理性を重視した視点は、泥沼の倫理論争にならずに成果を挙げることができるのではないか、そう思ったのです。
更に、それに国策としてのコンテンツ産業振興を絡めることで、経済的合理性の観点も持ち込めば、規制推進派に対する同人側の説得をより合理的なものにすることが出来るのではないか、そのようにも思います。正直、コンテンツ産業の振興という方針に何がしかの違和感を感じないでもないのですが、話としてはもっとも筋が通しやすく説得の可能性も大きいのではないでしょうか。つまり、この問題にあまり深い関心やこだわりを持っていない(規制反対推進問わず)ような人々に対しても、充分説得的足りえるからです。
このように、合理性を根拠に、同人というものの存在を世間に認めさせ受容させるという方法が、今後の宣伝活動の方向として良いのではないか、それが小生の思ったことです。元々の伊藤氏の発言の意図とだいぶ離れてしまったかもしれませんが・・・。
ただ、「合理性」の旗印を掲げて利害調整の手法のみで解決できるのか、それについては、このように書いておきながら些かの不安もまた小生は同時に持っています。
そもそも今回の研究会の報告書に出てきたような表現規制に関する動き自体が、例えばシンポ会場でも指摘されていた児ポ法の年齢基準のように、およそ合理性とはほど遠い状況がまま生じているということです。合理性(特に経済的合理性)が規制推進派に対する説得の根拠にならない、或いは「合理性」を図る基準がハナからずれている可能性もあります。
一方、これはかなり勝手な物言いで申し訳ありませんが、そもそも同人誌のような、表現に強い意欲を持ってコミケのような場を形成するに至ったエネルギーの源泉自体が、そもそも合理性によって生まれたものではないのではないか、ということです。だとすれば合理的な利害の調整という手法が、同人の側からも受容されないかもしれない、なんてことをふと思ったのでした。
というわけで、色々と文句をつける割には、この問題に関する何かしら明快な解決案を小生は示すことが出来ていないのですが、しかし恐らく何か決定的な解決法によって「最終的解決」を図るというのではなく、好ましからざる事態を避けつつ常に変化し続けるという、いわば「永久革命論」的な方向ということになるのであろう、と、会場の前で「革命的非モテ同盟」の古澤書記長に出会ったのも何かの縁ですし、左翼チックな用語でひとまず結びとしたいと思います。同人も最後は個人の思いによって支えられており、その日々の実戦が積み重なっていくものだと自戒の念を込めて。
蛇足ですが、このシンポを見に行ったりレポを長々と書いたりした直接のきっかけは、コミケで出店したり見て廻るのがメカミリ・評論・歴史・非電源系ゲーム・創作(少年)のメイド島限定(しかも資料本しか売らない/買わない)、と、同人の中心であるとされる漫画に碌に縁がなかった小生が、所謂18禁指定の同人誌を買わせていただいた数少ない書き手であるカマヤン氏、その氏がブログにてこのイベントに「当日私は所用で参加できませんので、参加された同志はレポートヨロです」と書かれていたからであります。この記事が小生よりも深く創作や同人に関心を持たれる方のお役に立てば幸いです。
以上、絵も小説も書けない鉄道趣味者がご報告申し上げました。