一途な想い 君のココロを傷つけている~古澤氏の記事に関し雑感
さて、その「同人誌と表現を考えるシンポジウム」の拙レポートについて、「革命的非モテ同盟」の古澤書記長が、革非同の活動外の個人的ブログ「furukatsuの日記」にてご紹介くださいましたことはまことに光栄の至りであります。しかし、拙記事をご紹介下さった古澤書記長のブログ記事「同人誌と表現を考えるシンポジウム」に関しましては、小生はいささかの懸念を覚えます。すなわち古澤書記長が該記事で述べておられる「闘争方針」は、事態の改善に役立つのかという疑問です。
端的に言えば、「我々」と「敵」とに世界を二分し、「非妥協的」な闘争をすることが目的達成の手段として適切だとは思えません。この世界は、同人者と規制当局(とその手先)だけで構成されているのではありません。そしてまた、闘争することが目的ではありません。表現を守ることが目的です。古澤書記長が該記事にて「三つの柱によって達成される」と示された方針は、如何にして規制当局と闘争するかの方針であって、表現を如何に守り豊かにするのかという視点は見出せません。それは目的と手段を取り違えていると言わざるを得ませんし、かつての革新勢力がやがて退潮していった理由にも通じるかと思います。
規制推進派と同人関係者の間に、こんな問題があることを知らない圧倒的多数の人々がいます。運動の方針の一つとしては、この圧倒的多数の人々の支持――とまでいかなくても、規制当局が押し付けたがっている像ではない認知を獲得することが出来れば良いでしょう。その際に、オタ文化の経済的な影響が大きいとか、コミケの大規模さに見るように相当多くの人に浸透しているのであるとか、そういったことは利用できるでしょう。かくてそれだけ社会の一角を占めている存在であるということをアッピールできれば、それを弾圧しようという側にとっては話が面倒になってくるわけで。「利害の調整」に応じるしかなくなってくるわけです。
ひとくちにいえば、拡散と浸透が大事なのではないかと。団結の美名の下に、強力な指導者による思想統一を図ることは、そもそもの豊かな表現の場を守り育てるという根本の目的に反します。少数の中核による非妥協的な闘争よりも、多様さを武器にここにもいる、あんなのもいる、と同人と表現によるネットワークが社会のあちこちに展開するように、そしてそのことをより広く認知させる、それが目的に適うと思います。最悪どこかが叩かれても、ネットワークのどこかが残れば、また表現を育てていくことが出来るはずです。
答えはそう「一つ」だけ、ではありません。
具体策としては、古澤書記長のお示しになられた道と結局類似してくるとは思います。政治的なロビイング活動を行うとか(落選運動を行えるかは正直疑問ですが)、経済的意義をアッピールするとか。
その二つは良いんですが、古澤書記長の「第三に軍事」というのは、まあ冗談で仰っているのだと思いますが、何がやりたいんだかさっぱり分かりません。あまつさえ、「なのはさんの例を紐解けば分かるように」というのは、冗談にしてもまったくもってケシカラン話であると思います。余人であればいざ知らず、いやしくも「革命的非モテ同盟」書記長にして、とは恋愛資本主義の粉砕の先頭に立つべきものがこは如何に。
なんとなれば、『なのは』シリーズの原案者・都築真紀氏は、かつて自己の作品中で、恋愛資本主義にどっぷりはまった世界観を臆面もなく展開していたのです。
ここで小生が押入れから引っ張り出してまいりました資料は晋遊社の『ポプリクラブ』1997年7月号。ちょうど十年前ですね(多分6月発売)。我ながら物持ちがいいなあ。なお小生の年齢についてのお問い合わせにはお答え致しかねます。
で、この雑誌には、都築真紀氏の単行本未収録作品「幸せのリズム」が掲載されております。これが問題の作品であります(ついでに言えば、小生が読んだことのある唯一の都築作品)。
全く本題と関係ありませんが、小生がこの雑誌で「エロマンガ」としてもっとも「印象に残った」のは嶋尾和氏の作品でした。この表紙に名前の上がっている作家で単行本持ってるのは嶋尾和氏のだけですね。比較的最近、嶋尾氏の某単行本を買って巻末のあとがき漫画を読むまで、男だとばっかり思ってました。絵や話から何となくそんな印象を受けていたのでして。
それはともかく、本題の「幸せのリズム」です。
そんな二人ですが、美雪先輩は最近八重樫君に対して「バイトバイトってちっとも遊びに連れてってくれないし!」「ムードもなんもなしにHばっかしたがるしさっ!!!」と些かご不満。それで二人の間にひと悶着(&ひと交接)あって、もちろん最後は丸く収まるんですが、そのときのシーンが↓これ。
へーそうですか。愛はプレゼントで確認するもんなんですか? これを恋愛資本主義と呼ばずしてなんと呼ぶ!?
ついでに最後のページのオチでは、美雪先輩がさらにえげつない恋愛資本主義的発言(笑)を発してくれます。(漫画としては面白いけど)
かかる漫画を公表して憚らぬ都築真紀の作品を、こともあろうに闘争の指針に持ち込もうとするとは、非モテの星たる古澤書記長でありながら、反革命的限界を露呈してしまっていると言わざるを得ません。強く自己批判を求めるものです。
やはりここは『なのは』ではなく『Saint October』を視聴し、力による正義の裁きを下すことの危険さを悟った少女が、赦しということを身につける経緯をじっくと学ぶべきでありましょう(11話~13話あたり)。
要するに今日の教訓は、古いものを取っておくと何かネタになるかもしれない、ということです。そして過去の蓄積なくして未来の生産なし。資本だって表現だって。
ところで色々検索してみると、都築氏の単行本未収録作品を掲載している雑誌は、オークションにて結構な値段で取引されているようです。なんだか2万円という話も出てきたし。
・・・この『ポプリクラブ』を誰かが1万6800円以上で買ってくれれば、『MANOR HOUSE』が買える喃(苦笑)
えー、例によって話が滅茶苦茶になってきたのでまとめます。
・表現の自由を守るには、非妥協的闘争よりも拡散と浸透を。
・古い遺産をきちんと継承していくことで、表現の豊かさも発展していく。
・でも『ポプリクラブ』については価格次第で・・・(?)
以下余談。
『ポプリクラブ』1997年7月号はリニューアル第1号なので読者投稿コーナーがありません。とは即ち、三峯徹画伯のイラストが拝めないということです。しかし翌8月号の新装開店読者投稿コーナーにはしっかりと・・・
もいっこ。
この絵はなんだか変な気がします。
声優による顔出しEDの危険さを悟った私が、スルーを身につける経緯を実践。
コメントありがとうございます。返信が遅くなってすみません。
で、やはり十年間の斯界の変化というものもあろうかとは思いますが、或いは個人的創作活動と集団的企業活動の性格の違いもあるのかもしれないと思ったりも致します。
とまれ浅学の身、今後とも宜しくお願い致します。
というのは冗談にしても、実際問題、いままでのオタクちゃんがいいこちゃんにしていれば弾圧されないと、相手の儀礼的無関心をあてにしすぎていたという批判はあるわけで。このシンポジウムでのコメンテーターもその反省に立っているわけですが、私としては僕たちはいい子だよ、とアピールすればそれで解決するのかというのは疑問なわけです。
オプションとしての強硬手段はあくまで常に想定しておくひつようがあるのではないか、同時に非妥協に闘うというのも方法の一つではないか、と私は思うのです。
いま、いいように権力から弾圧されているのはオタクは「いい子ちゃん」だからなめられているというのは少なからずあるのではないでしょうか。
この『ポプリクラブ』、買いませんか?(笑)この記事の主文は勿論そこです。
それはともかく、「強硬なオプション」で「非妥協的に戦う」ことに勝算が果たしてあるのかどうか、率直なところ疑問に思うわけです。そのような状況に陥らないような方が、現実的ではないかと思います。
一番大事なことは多分、「表現をやめない」ことです。それについては、非妥協的であるべきです。