アキハバラ前史?としての柴田翔「ロクタル管の話」 附・共産趣味など
で、自衛隊といって陸上とか海上とか航空とかなんてのはありきたりなわけで、ましてや『戦国自衛隊1549』などと言い出す手合いに用はありません。自衛隊といえば中核自衛隊。なんつったって陸海空より古いのだ。
「革命的非モテ同盟」の古澤書記長が「アキハバラ解放デモ」の後に中核派だと叩かれていた時に、古澤氏は元自衛官だから、中核派ならこれがホントの中核自衛隊、という駄洒落をやろうかと思いましたが、どうもこの駄洒落が通じる雰囲気ではなかったので断念しました。
枕が本題から逸れまくりなので、話を戻しまして。
日経新聞の夕刊一面下段に、曜日ごとに筆者の変わるコラムがあり、その筆者は半年おきに交代しているようです。で、先月交代した今年後半のコラム執筆者の中に、芥川賞作家の柴田翔氏の名がありました。それで表題の小説のことを思い出した次第。
柴田翔氏の芥川受賞作を収めた単行本『されどわれらが日々――』は、表題作(これが芥川賞受賞作)ともう一篇、短編を収めています。それが「ロクタル管の話」です。ロクタル管とは真空管の一種で、この小説は朝鮮戦争勃発当時のラジオ少年の姿を描いた小説です。この中で、秋葉原電気街形成以前の露天商なんかが描かれているんですね。後に秋葉原のガード下に囲い込まれるようなラジオ部品の露天商が、神田から須田町あたり一帯に分布していたのだとか。そこで売られている真空管は、米兵が朝鮮に送り込まれる前の最後の歓楽のために軍の資材をかっぱらって横流ししたものという世界です。
「秋葉原」の読み方の歴史について一仮説を述べたりした者としては、その描写自体なかなか興味深いものでした。しかしのみならず、ラジオ少年がなぜラジオに惹かれているのか、そのココロの描写が今読んでも何か心打たれるものがありました。正直、今読んでもすんなり頷けるのは、「されど~」より「ロクタル管の話」だと思うのです。
そういえば「アキハバラ解放デモ」への批判として、秋葉原は「萌え」系のオタクが増えたせいで「本来の」コンピュータのマニアなどがかえっていづらくなっている、というのがありました。その気持ちは分からなくもないですが、しかし時とともに街の性格は移り変わるものですから、何が「本来」かは簡単には決められないでしょう。もし、街の扱う主な商品が変わっても、街に集う人のメンタリティに共通点が多ければ、それが街の性格を規定する重要なファクターになるでしょう。もしかするとそういうものがあるのかもしれない、なんてことまでこの作品を読んでいて思ったのでした。
小生のくだくだしい説明より、「ロクタル管の話」からその箇所を抜書きする方が分かりやすかろうと思いますので、以下に少々長いですが、参考となりそうな箇所を引用。
だが、あの頃のぼくらのラジオへの、いや、より正確には、一般に真空管を使って、ある回路を作ること、への熱中には、実際一種特有のものがあった。…回路を作って行く時、ぼくらはいつも自分の現に住んでいる世界とは別の世界を、その一見複雑にこんぐらがった配線の向うに、作っているような幻想を抱いたものだ。…
…ぼくらを掴んでしまって接して離そうとしない配線の向う側の世界の本当の魅力は、おそらく、その世界で起きることが、それは非常に正確であり、そのことは疑いえないのだけれども、同時に、決してぼくらの眼には見えることはないのだという点にあったのだ。
…そういうエピソードのうちに、ぼくらは時々見慣れないものにぶつかり、おどろかされ、ふっと戸惑うことはあったのだけれども、やはり大体に於てぼくらは陽気だったし、さっきから何回も言っているように、自分らが作り上げる、現実の向う側の世界の美しさに夢中になっていたので、それ以上の、ぼくらをおどろかせるような、見慣れぬ、少しばかり異様なものは、少なくとも表面的には、直ぐに忘れてしまっていたのでもあった。あの頃のぼくらの最大関心事は、何と言っても、やはり、美しさと言うことだったのだ。
だから、あの頃ぼくらは自分たちの部へ、決して女の子を入れようとはしなかった。勿論ぼくらは、それは中学三年生としては随分子供っぽい連中の集まりではあったけれども、それでも、同級の女の子たちの漸く肉づき出した腰や胸のふくらみ、短いブラウスから出した、すんなりした白い腕、それに何にも増して、彼女たちが時折見せる、横顔をちらとかすめるあの表情、そういったものの美しさに決して無関心ではいられなかったし、そういう美しさがやがてぼくらの中に誘い出すであろう恐ろしいものを、ひそかに予感してもいたものだった。けれども、それだからこそ女の子達をぼくらは仲間に入れなかった。と言うのは、つまりあの頃のぼくらにとって――それは年相応の感じ方だったのだけれども――女の子は美しさそのものであって欲しいものであって、彼女らが美しさの追求者となることは、ぼくらが心秘かに考えている彼女らの本質を壊してしまうように思えたのだった。そして、ぼくらの女の子に対するこういう態度のうちに、また逆に、自分らを美しさの具現者ではなく、追求者と厳格に位置づけたことのうちに、あの頃のぼくらが電気回路だとか真空管だとかによせた憧れの、いわば質といったものを考える、一つの示唆のようなものがありそうな気もするのだ。そして、あのロクタル管の美しさが結局のところ、そういう憧れの対象たる美しさの質を、目に見える形で一番よく代表していた。ロクタル管の美しさ自体は、いわば虚像の美しさであったと言えるかも知れない。しかし、その虚像を通じて、ぼくらの憧れが指向していたのは、あの、ぼくらが見ることなく信じうる、曖昧さの全くない、確定的な正確さを持った電気現象の世界だったのであり、まさにそれ故に、ぼくらにとってロクタル管は美しかった。
そうそう、中核自衛隊の話でしたが、これは「されど~」の方の話です。共産趣味的に読んでいてなかなか興味深いわけで、「駒場の歴研」などと出てくると、最近は革マルになったなあと感慨しばしです(今は知らない)。
しかしこの小説の重要なテーマは政治思想というより、その状況下での青年男女のくっついたり別れたり、という方にあるのだろうと思います。そっちの方からも事のついでにちょこっと引用しておきますかね。あんまり重要な人物じゃない、宮下という助手が主人公に対し恋愛観を語るところ。
……恋愛は、それがどんなに周囲に祝福されているようにみえても、本質的に反秩序的なものです。いや、ぼくは性的欲望についてだけ言っているのではありません。そうではなくて、相手が自分にとって何よりも大事なものになるというプラトニックな愛情自体のうちに、既に反秩序的傾向、自分が属している秩序から抜け出して自由になりたい傾向があるのです。いや、逆なのかもしれません。自由になりたいという願望が、恋愛を生み出すのかも知れません。ですが、自由が何でしょうか。世界の中の束の間の存在であるぼくらにとって、自由が何でしょうか。ま、この引用は結構恣意的な切り方をしているのですが、どこがどう恣意的かは作品を読んで下さい。
というわけでこの二編をおさめた一冊、オタク心から共産趣味と恋愛と一通り揃っているので、古澤書記長にお勧め。でもまあ、今一般に読んで広い支持を受けるかは、いささか微妙であろうとは思います。
言うなれば、秋葉原こそは「萌え」や「パーツ街」に占領せらるる現状から解放され、軍オタや本格志向の人間の手に回帰すべきなのです。
いやむしろ、元軍という肩書きに萌え、ハードを回路レベルで製造する萌えとマイコンの巣窟と化すべきなのです。
ただ、無線特技を持つ兵や下士官は、死ぬまで召集令状が舞い込んだとか。(帰休直後の宴会中に連絡が来たとかいう話もあります。)
本筋とは余り関係なくて申し訳ありませんが、古さという点では日中戦争時に中共系民兵の一部が名乗った、「模範自衛隊」のほうが上とすべきではないでしょうか(『日中戦争の軍事的展開』によれば、41年当時の中共軍事委員会が作成した文書に「民兵は自衛隊の中枢である」という文言があるそうなので、ほぼ確実と思われます)。