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筆不精者の雑彙

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「平賀譲とその時代展」と講演会@東大駒場美術館

 昨日、表題の展示会と講演会に行ってきました。
 正式には東京大学教養学部美術博物館で開かれていた「平賀譲とその時代展 一高生から東大総長へ」であります。講演会は戸高一成氏の「日本海軍の作戦構想と平賀式軍艦」、川瀬晃氏の「平賀譲と第四艦隊事件」というお題でした。

 平賀譲は旧日本海軍の造船技術者で、多くの軍艦の設計に関わった他、戦時下の晩年は東大の総長を務めていました。若き日は東大で造船を学び、後には造船学で教鞭を執り、最後には総長になったわけで、海軍のみならず東大にも縁の深い人物です。
 平賀が亡くなった後、残された厖大な資料類は、曲折を経て東大工学部の柏キャンパスの図書館に収められるに至り、そしてその内容はデジタル化されてネットで閲覧できるようになりました。
 それが平賀譲デジタルアーカイブです。「曲折」の経緯は左サイトに詳しいのでそちらをご参照下さい。この平賀が残した資料類を使ってまとめられた研究書が、畑野勇 『近代日本の軍産学複合体―海軍・重工業界・大学』(創文社)ですが、この本が出た頃、2年ほど前に行われた産業史についての学会に、小生手伝い要員として出させてもらったことがありました。そのことは以前簡単に書いたことがありましたが、その時聞いた話では、平賀譲の文書はデジタル化してサーバーにアップはしているが、まだ一般公開してはいないという話でした。それがいよいよ一般公開となったわけで、大変喜ばしいことと思います。

 展示会の内容は、平賀が残した軍艦関係のものがやはりメインで、戦艦や巡洋艦の青焼き図面や様々な構想(ラーゲリ氏の表現に倣えば「わずか90万円で長門が見違えるように!」)、或いは理論や実験の資料が目を惹きました。しかしそれだけではなく、総長時代のいわゆる「平賀粛学」の際の日記といった史料もあり、大いに見応えがありました。
 平賀の東大工学部時代の卒論がありましたが、これは小生学部時代、工学部の倉庫にほっとかれていた戦前の造船学科の学生が書いた卒論と実習レポートの山を整理する、ということを指導教官のお手伝いでやったことがありまして、その時以来の再会でした。整理手伝いの時、平賀の卒論を見つけて物好き何人かが「おお、平賀だ」「英語わかんね」(日本語で書いてあってもわからんでしょうが)とめくって打ち興じたことを思い出しました。あの実習レポート群は多分柏に置かれているのでしょうが、海軍の呉や横須賀に実習に行った人も多いので、あれも公開すれば軍艦マニアの人たちには喜ばれるかも知れません。
 あと、平賀が学生時代に、製図の練習として模写したという蒸気機関車の側面図がありました。元の図面も並べて展示されていましたが、書かれている文字からするとどうもフランスの教科書を写した物のようです。フランスの鉄道には疎いので、描かれていた機関車が何なのだか分かりません。軸配置0-6-2(フランスだから031か)、スティーブンソン式弁装置、キャブは吹き曝しでボイラーは木で巻いてあるように見えたところからすると、結構古い物のように思われますが・・・

 講演会は大盛況でした。正直、こんなマニアックな講演会にそんな大勢は来ないだろうと思ったのですが、開始十分ばかり前に会場に入ったところ、80席程度はあったと思われる椅子が全て埋まり、急遽追加されたと思われる丸椅子にかろうじて席を取ることが出来ました。人はどんどんやってきて、椅子をかき集めて並べていましたが、本来聴衆のスペースとして予定されていた場所に収まりきらず、かなり強引に押し込める結果となっていました。聴衆は200人に近かったのではないでしょうか。聴衆にはお年を召した男性の方が圧倒的に多く、平均年齢を取ったら50歳は越えていたろうと思われます。
 講演の内容を簡単に。

○戸高氏
・日露戦後の日本海軍の戦略構想は、小笠原附近での1回の艦隊決戦に全てを賭けるというものであった。
・平賀設計の軍艦の特徴は中心隔壁(艦の真ん中で左右を分ける隔壁)を持つことで、これは被害を受けた場合片舷にのみ浸水して転覆しやすいという問題がある。なのになぜ採用したかと言えば、被害時注水で容易に水平を回復できるため、被害が想定内であれば戦闘中の戦力維持が容易であるため。1回の決戦に賭ける戦略だったためにこうなった。
・平賀は金剛や長門の設計に関わったが、主任になったのは天城型以降で、その途端ワシントン条約で戦艦建造は終わってしまった。そのため海軍を辞めても、その後の金剛代艦や大和などの戦艦計画に介入したがった。
・第1次大戦後は、開戦時の戦力で戦いきるのではなく、生産しながら戦うようになった。そのため軍艦も1回の決戦で全てを決するのではなく、修理しつつ戦い抜くようになり、欧米ではダメージコントロールの研究が進んだ。しかし日本はそうならず、平賀の軍艦は太平洋戦争で、不本意に使われ沈んでいった。

○川瀬氏
・平賀の後任の藤本喜久雄設計の特型駆逐艦が台風で大損傷、50名以上が死亡(第四艦隊事件)。現役の造船士官はその対策として兵装の削減を考えたが、平賀の指摘により兵装を維持したまま、安全対策が行われた。太平洋戦争で日本海軍の船は台風で沈まず、一方米軍は4隻沈んで700人以上が死亡した。
・日本で造船に溶接を取り入れた際、船体が歪むなどの問題が生じ、海軍では溶接の使用範囲を制限することとなった。現場からは反対もあったが、平賀の意見が通って溶接の使用範囲は相当限定されることとなった。平賀は溶接の現場をどれほど見たことがあったのか?
・平賀による溶接の制限は戦後になって、日本の造船の技術的な遅れを招いた一因と、アメリカとの比較から言われたことがあった。しかし当時の日本の状況からすれば平賀の判断はそう誤りとは言えず、また戦後1956年には日本は造船高世界一になっており、本質的な立ち後れは無かった。

 その後質疑応答。ご老人の方が多く、聞き取りにくい(元々大勢が集まることを予定していなかったためか、マイクの設備なども不十分でした。始終ハウリングしてました)ので、うまくメモが取れず。若干話が噛み合わず、聴衆の方同士で問答になっていったり。後で聞いた話では、要領を得ない質問をしていた方に、講演者に代わって応えていた方は、平賀が総長の頃東大で造船を学び、軍艦の建造にも従事して、戦後は東大で造船を講じ、現在は名誉教授の方だったそうです。ある意味、贅沢な話でした。

 展示会も講演会も面白かったですが、それ以上に嬉しかったのが旧知の軍艦マニアの方々にお会いできたことでした。東江戸川工廠のじゃむ猫さん、機関車技術研究会・蒸気推進研究所の髙木宏之さん、ゴンザ・リオさん、台北亭さんといった方々でした。以前は折々お会いすることがあったのですが、いろいろあって疎遠になっておりましただけに嬉しい出会いでした。小生は高校生の頃、髙木さんの記事で日本の蒸気機関車の体系的歴史を初めて知ったのですが、近く今度は軍艦の写真集を出されるそうで楽しみです。

 とまあ、充実した一日でした。
 その分、これから暫くゼミなどで忙しくなりますが・・・
Commented by 坂東α at 2008-04-20 23:27 x
私も片付けに少し噛んでいたんですがね。
 溶接の件は色々いわれるのですが、結局日本の職人のDQN性ゆえに制限せざるを得なかったんではないかと勝手に思っているのですが。どうなんざんしょ?
Commented by 東雲 at 2008-04-21 00:09 x
知らなかった ORZ

しかし、上記のような混雑では小生のような軍艦に無知な輩は遠慮した方が賢明だったでしょう。
Commented by 無名 at 2008-04-22 12:43 x
>>坂東αさん
違います。
溶棒の品質不良が主因です。
戦後の出光丸もハイテンの特性(火花が出やすくスパッタだらけ)以上に溶棒の品質不良に泣かされています。
先日、バイク屋で7N材のフレーム製作を見ていましたが、溶接面に妙なスが入りました。
対策としては、スをドリルで拡大、整形し、7N材を旋盤でポッチ状に挽き穴に打ち込みシールドガスを流しながら通電させるという手法ですが、明らかに溶棒か通電用のタングステンの品質に問題があるようでした。
不良が出回る理由として、中国での大量使用が上げられますが、メーカーの許容範囲の不良すら、特殊な材質、用途では不良になるという一例だと思います。

Commented by bokukoui at 2008-04-23 19:58
>板東α氏
あの学会の時にお会いしていたのかもしれなかったんですね。
テーマを考えれば納得です。

>東雲氏
学内ではポスター張ってましたし、また海事史学会と共同なのでその方面では情報が流れ、またmixiでも流れた(お会いした軍艦マニアの方々はそれで知ったとか)そうですが、あまり広くは周知されなかったのでしょうか。
しかし空と陸のみならず海にもご関心がおありとは、お見それします。

>無名さま
毎度懇切な説明ありがとうございます。
戦前に溶接棒の品質の低さを嘆く話は小生もどこかで読んだおぼえがあるのですが・・・これはもうちょっと勉強しないとな。
しかし今でも溶接は、なかなか難しいところがあるのですね。
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by bokukoui | 2008-04-20 22:27 | 歴史雑談 | Comments(4)