「マンガ論争勃発番外編-表現の自由と覚悟を問う」感想
その前に、他の方のレポをご紹介。簡にして要を得ておられるので、当ブログのむやみと長いレポを読むより効率的かと(苦笑)。第2部の飛び入りゲスト紹介の充実振りは他の方のレポよりできがいいと思いますが、そこは枝葉ですしね。
・崩壊日記(出張所) さん「昼間たかしプロデュース「マンガ論争勃発番外編-表現の自由と覚悟を問う-」in阿佐ヶ谷ロフトA」
・実物日記さん「今さらな愚痴。されど。」
なお、この一連の記事、実際には2日から5日にかけて断続的にアップされております。同じ日のことなので日付をそろえてみたのですが、かえってわかりにくかったかも。
さて、いろいろと思ったことのうち、幾つかをつらつらと。
この場で話されたことで小生もまた考えざるを得なかったこと、それは「善意」な人たちをどう説得するのか、という点です。これについては議論中永山氏が「資料や情報を幾ら積み重ねても、最後のところで『でもやっぱりこういうのは規制しないとね』と結局感情論や一般論になってしまう」という問題にどう立ち向かうかという疑問を提起しており、これは小生もこういった問題について考える時にいつも行き着かざるを得なかった点でした。
で、これについて主に松浦氏などがイベント中でいろいろと語ってくださいまして、その内容は首肯するところではありますが、しかしそれは結局、決め手となる対策はないということになります。ネットという新しい手段も別段何かを変えるわけではなく、所詮やっているのは同じ人間、というのが荻上氏の指摘でした。それもまた大いに頷けるところです。
この話題について語られるとき、規制批判派がいつも指摘する点、今回のイベントではダニエル氏がそのままずばり言われていますが、実在の児童の人権を守ることが一番大事ではないか、という点があります。表現規制に脱線して肝心のことが無視されていることが問題であり、それを執拗に追及し続けることは大事だと思います。日本ユニセフ協会のページではチェコ、ネパール、モルドバの事例が挙げられており、このような事態を阻止せねばならぬことは勿論です。しかし、それと日本の漫画を取り締まることとの間に何の関係があるのでしょうか。これらの事例を読んでまず考えられることは、貧困だから売る物が人間しかない、ということです。であれば、日本政府は自国内のマンガをどうこうするよりも、ODAを贈った方がどう考えても直接にその国々の経済を活性化し、ひいては親が子どもを売り飛ばす事態を軽減せしめることが出来るでしょう。
しかし、合理性や論理性をもって説得できないとなると、同じ土俵で議論をしても何も成果はないということになります。結局の所、「十字軍」的信仰心の問題ですから(実際の十字軍の方がまだある種「合理性」があったような気も・・・)。イベントでは語られませんでしたが、問題のアメリカ大使館のハンセン書記官、信仰は何なんでしょうね。キリスト教の聖書根本主義派、ファンダメンタリストである蓋然性は少なからずあるように思われます。
もっともこのような事態を招く「信仰心」というのは、別段ファンダメンタリストだの自爆テロする連中の専売特許というわけではありません。合理的解決よりも精神の主観的安定を求める、いわばモルドバの子供を救うのにODAよりもマンガを焚書にすることを重要と思ってしまうような、そういう心の動きは遍在しており、こと近年顕著になっているように思われます。これは個人的行動としてならば別に構わない場合が多いと思われます(失恋してスイーツをやけ食いする女の子に「健康に良くない」とアドバイスするのは無意味です。自殺とか心中とかならともかく)。ですが、政策とすべき物ではありません。
このイベント中で皮肉として「国益よりも子供の安全」という言葉が出てきましたが、問題解決への合理的方法論を欠いた善意の暴走が政策に取り入れられた場合、多大な弊害をもたらすことになるでしょう。こういった暴走は近年、「安全」という錦の御旗の元に、既に様々な問題を巻き起こしつつあるように思われます。食の安全然り、建物然り。これは皮肉にも、日本が歴史上世界でも稀に見る安全な社会であるが故に生じたように思われます。
この問題については、藤田省三が四半世紀近くも前に「『安楽』への全体主義」として述べている内容が、今日なおより痛切なものとなっているように小生は思います。一度はそれを題材に議論してみたいと思っていますが、今はその暇がありませんので、とりあえず同論文を収めたみすず書房の単行本『全体主義の時代経験』(「『安楽』への全体主義」は本書の中核をなす「全体主義の時代経験」の前触れ的存在)の裏表紙に書いてある内容紹介を書き写しておきます。
20世紀は、全体主義を生み、かつ生み続けている時代である。それは、3つの形態をとって現れた。最初は「戦争の在り方における全体主義」として、ついで「政治的支配の在り方における全体主義」として、そして今やそれは「生活様式における全体主義」として登場した。「安楽」への全体主義である。
そこでは、「安楽」を憑かれたように求めて、不快の源を根こそぎにしようとする強い動機が働く。J.ハックスリーが害虫駆除を「マス・ケミカル・コントロール」と呼んだような事態である。それは、ナチズムやスターリニズムの政治支配における、不快な存在に対する「追放と拘留」の無窮運動という現象に対応している。社会基礎的次元に達し、日常化しているだけに、より根本的とも言える。
著者(註:藤田省三)の描く20世紀像も、その最先端あるいは最終局面にある日本社会の粗描も、きわめてペシミスティックである。それだけに、ソルジェニーツィンの「陰気な顔して何になる」という引用が、現代における勇気の在り方を示して、一層のリアリティを帯びる。我々はこのような時代に生きている。
さて、そんな時代にどうするのかっていう答えは、正直わかりません。松浦氏がイベント中で紹介していた『論座』の対談では「教育」という話だったそうですが、気の長い話です。しかし結局は、気の長い話を諦めず続けていくしかないのだろうとも思うのです。
気の長い話を諦めず続けるためには、経済的基盤もさることながら、志気の維持が重要です。やたらと規制したがる方々の少なくとも一部は、宗教的なものからその志気を補充再生産しているのだろうと思われます。それに対抗して気の長い話を続けるには、やはりそれに関わるものが好きだという強い情熱が必要なのだろうと思うのです。
イベントの最後の方で、ロフト店長平野氏が「希望は戦争」赤木智弘氏に議論を持ちかけ、それに対し壇上から永山氏や増田氏が罵倒し返す、という一幕がありました。なるほど小生が書き起こした文字面だけ読まれた方には、氷河期世代・赤木氏の苦衷を察せられぬ高度成長期に青春を送った平野氏を、永山氏や増田氏がたしなめたようにも思われるかも知れません。しかしその場の様子をつらつら思い返すに、むしろ「怒鳴る」というコミュニケーションが平野・永山&増田間に成立したにもかかわらず(最後に永山氏は「叫んでストレス発散もできた」と発言しています)、肝心の赤木氏は頭上飛び交う声の中で発言できていなかった、そんな情景が思い浮かぶのです。
この一連の議論があの場で一応収束したのは、増田氏が結局は将来への希望という一点を認めたことでした。思うに増田氏や永山氏、平野氏といった方々は好きな何かを持ち、それがいわば「希望」となって、こうして生きてこられたのではないかと推察します。一方赤木氏は戦争が好きではない(好きで傭兵になってアフリカとかに行かれてもそれはそれで困る、というかだから子供の人身売買とかが無くならないのですが)ということが以前お話ししたときに分かりましたので、多分そこに齟齬があるのだろうと思います。
要は、憎悪よりも愛を持って、ということです。作り手と受け手と双方の愛が、豊かな文化の実を実らせ、それが次の世代へと受け継がれていくのです。そしてそれこそが、その実を受け継ぐであろう子供たちへの、前の世代の愛に他ならないのですから。
うん、綺麗にまとまったかな?
たまたま、モルドバで日本人が炭焼きを、技術科の教員と用務員(電工ナイフの使い方から鑑みると工兵出身の可能性が。)に教えるという番組を放送していました。
結果としては、炭焼きの残骸と残飯を集め炭団を子供たちが作るという方向に話が進んでいました。
かつて経済学が政策論から独立して以来、経済に対して政治が出来ることというのは局限されて来ましたが、ケインズ以降その流れが変わり、まるで経済の好不調を政治によって十全に左右できるかのように(一部によって)見なされて来ました。
しかし当のケインズは、有効需要や「誘い水政策」を提唱はしましたが、全体としてケインズ理論はマーシャルの原論を補完する立場から書かれており(確か本人談)、古典派や新古典派に欠けていた貨幣や金融、その他に対する理解を促すものに過ぎなかったはずです。
しかし、経済に対して特効薬を持たなかった政治にとって、財政・金融政策の有効性は心地よいものだったのでしょう。中央銀行の総裁になって貨幣供給量を操ると「万能感」があって楽しいとか聞きますし。それでマネタリストというのが次に……
とまあ脱線気味にコメントしてしまいましたが、いつでも政治というのは「良かれと思って」「他にやりようが無かった」という理由でやらなくて良いことをやって暴走するんだなと。そういう感想です。
これはどうでしょうか。私が今まで色々なアメリカ人を見てきた感じだと、「十字軍」的信仰心という点ではいわゆる「良識的リベラル」(世俗的人道主義者)もファンダメンタリストに負けず劣らずの情熱を発揮する人種ですよ。
#中国の人権問題などでアメリカの議会がしばしば強硬に(それこそ「十字軍」的に)相手国に対処を迫るのも、この両者による左右両極連合が世論を喚起し、それが党派を超えた議員連合の形成を促す、という力学が働くからです。
アメリカ大使館の人事がどうなっているか存じてませんが、ファンダメンタリストが外交使節に入り込むとは考えにくいので、むしろ例の書記官は「良識的リベラル」の手合いである蓋然性が高いと思います。
#オーストラリアあたりだと反捕鯨の環境活動家が環境大臣になっていたりしますからね。
彼らの場合、(日本の大衆感情にありがちな)精神の主観的安定の追求ではなく、自らの確信に基づいて動いていますから、なおさら説得の糸口は見出せないと思われます。救いのないオチで恐縮ですが……。
http://tokyo.usembassy.gov/e/p/tp-20080123-03.html
このページの下の方、囲み枠の中にScott Hansen氏ご本人のプロフィールが載ってますが、大使館では人身売買を筆頭に犯罪・宗教的自由・難民・人権問題などを担当しているようです。JETプログラムで日本で英語を教えた経験もあるとか。コロラド育ちのミシガン大出という点と併せて、ファンダメンタリストの線はなさそうですね。(アメリカの若手国際派エリートという印象です。)
児童ポルノについて扱っているのは↓の文章になります。
http://tokyo.usembassy.gov/e/p/tp-20080416-72.html
前の文章と併せて前後編となっているようで、人身売買(human trafficking、必ずしも金銭を伴わないニュアンスの表現です)というより大きな問題の中で児童ポルノについて言及しています。(Child Pornographyの項参照。)
○まず、「児童への性的暴行は人身売買の最悪の形態だ(the brutal sexual assault of children, the very worst form of human trafficking)」と言ってます。
○文章全体を通じて「思春期を迎える前の年齢の児童」が強調されています。この点はティーンエイジャー(中高生)に焦点が当たりがちな日本の議論と若干ズレがあるかも。("Child pornography is a violent crime affecting small children." から始まる段落参照。)
○児童ポルノは小児性愛者の妄想を膨らませ現実の犯行への敷居を下げるだけでなく、子供を誘き寄せるための釣り餌にもなると言っています。(写真を見せることでその行為への抵抗感を麻痺させる、といった形で。)
○そしてここからがbokukouiさんの関心事になりますが、"The risks associated with child pornography appear to be the same whether the image is real or a cartoon." から始まる段落をご参照ください。
アメリカでの司法判断の結果、子供の絵と実写画像の間には違いがあることは認めるものの、米国政府は2次元の児童ポルノの交換も違法化すべきであるとの立場を採っているそうです。前項にまとめた児童ポルノの作用は架空のもの(とりわけ実写と見分けが付かないCG)であっても実写と同様に働く、というのがその理由だそうす。漫画やアニメであっても小児性愛傾向を持つ人物が現実の児童への性的暴行に走るリスクを高める(少なくともそのような資料が簡単に手に入ることは児童の性的対象化と小児性愛的関心の促進につながる)、との由。
○それ以後、話は2次元の児童ポルノから日本で児童ポルノの違法化されていないことは国際的な捜査協力に支障を来す云々に変わります。
あくまで印象論ですが、日本で議論されている論点とは若干位相のズレがあるので、こちらはこちらで粘り強く話し合えば何か展望が拓けるかもしれません。(少なくても、こちらの懸念事項を留意してもらう努力をする価値はありそうです。)「児童ポルノが潜在的犯罪傾向の持ち主の行動を促進する」というロジックに対してどう2次元の保護されるべき要素を提示するかがポイントになると思われます。
又、本質的には保守的な文化(車やファッションを見れば・・・。)を持っているので、「新しい」文化である「ヲタ」に対する攻撃性が発揮される可能性は高いと思います。
と私の血の一滴、髪の毛の一本に至るまでが確信しています。
モルドバというと貴殿に以前伺ったその話がどうしても念頭に浮かびます。一体何の効果があるのか分からない「架空の児童」のポルノ表現を規制することよりも、炭団の作り方の方がどう考えても彼の地の子供たちの助けになるはずですよね。
結局、支援よりも規制を求める声の背後にあるものは、人権を侵害されている人を救いたいというよりも、自分の快不快を正義と勘違いしている心の偏狭さに他ならないと思います。
>ラーゲリ氏
懇切な説明ありがとうございます。決して脱線ではないと思います。
「良かれと思って」「他にやりようが無かった」というのは何ともありがちなことですが、その矛先が何処に向かうのか、どうやって矛先が決まるのか、それを研究できれば役に立つ、とはやはり行きませんでしょうかね。結局たまたま、ってことになりそうで・・・
豊富な情報のご提供ありがとうございます。このブログのコメント欄はあまり広くないので、書きにくくすみません。(出来れば貴殿のブログでまとめていただければ・・・)せっかくの情報なので、リンクをレポ中に張らせて貰いました。これを手がかりに、一層の議論が広がればと思います。
ファンダメンタリストの線は薄そうですか、それは良かった・・・って結果は変わらないようですね。うむむ。
事実を積み上げて説得、といいますが、ご紹介いただいた内容に出てくる論点の多くは、レポしたイベントの論者が既に概ね根拠の薄いことを指摘しています。なかなか「事実」といっても難しいわけで、確かに位相の違いはあると思いますが、その辺を理解させられるかどうか。アメリカも一枚岩ではないので、アプローチの回路もいろいろ探ってみるべきかも知れません。やはり通じやすそうな所に訴えるということが大事ではないかと思います。
>無名さま
国の成り立ちを考えれば納得いきますが、それにしても。
「保守的」なのはおそらくそうなのだろうと思いますが、一方で新たな文化を生み出す力もあるところが面白いと言えば面白い所です。広い国ですね。
久しぶりのコメント有難し。
まさに正論。だからそれを実現するよう、訴え続けねばならんのです。
ちなみに、このイベントの昼間・永山氏が編んだ『マンガ論争勃発』の中に、コンテンツ関連の政策はコンテンツが好きな役人にやらせるべきだ、という意見があります。結局それが合理的なのです。
もっとも、「政策」という枠組だけで貴殿の確信に応えることは、ことを矮小化しすぎているとは、承知しているつもりですが・・・。