秋葉原通り魔事件について補綴
ですが、自分が生きている限りは、どこかで区切りをつけて平常へ(その平常は以前と少し異なっているのかもしれませんが)復帰しなければなりません。葬儀や法事の社会的意義もそこにあるのでしょう。
なので、まず「新記事を起こすかもしれません」と書いた秋葉原通り魔事件に関して、簡単に補足とまとめを書いておきたいと思います。
まず、事件を他に目撃された方の記録について。
拙文「秋葉原通り魔事件 現場に居合わせた者の主観的記録」にコメントを下さった灘雅輝さんのブログ「すごい勢いで~灘雅輝工房」に、事件の体験が綴られています。コメント欄では、「さらに近い現場より」さんもご自分の経験を書き込んでくださいました。また、検索で見つけたのですが、カタ山ペシ郎さんのブログ「カタペシブログ」に、事件の記録があります。以下に主要な記事への直接リンクを張っておきます。
●「すごい勢いで~灘雅輝工房」より
・秋葉原通り魔事件~12:32事件を目撃した内容 他(6.8.)
・秋葉原通り魔事件・・・事件の印象がだいぶ違う 他(6.9.)
・秋葉原通り魔事件・・・発砲音がなかったことに・・・(6.12.)
・秋葉原通り魔事件~目撃後一週間・・・心になにか・・・(6.14.)
●「カタペシブログ」より
・秋葉原通り魔殺傷事件でパニック(6.8.)
・秋葉原通り魔殺傷事件でパニック(続)(6.9.)
・秋葉原通り魔事件:恐怖感と自己嫌悪 他(6.10.)
・秋葉原通り魔事件:日本社会の闇と,埋まらない溝(6.12.)
貴重な証言として読ませていただきました。
灘雅輝さんのおられた場所は小生たちとは違った場所で、異なった視点からの証言として自分の経験を見直す手がかりとなりました。また、カタ山ペシ郎さんは、交差点南側という小生一行と近い位置におられ、その後の逃げたルートは我々よりも犯人に近い西側だったようです。犯人に近いだけ危険度も高かったわけで、何よりご無事で幸いだったと思います。
灘雅輝さんは、交差点で警官が刺されたときに、「発砲音が2発ほど聞こえ」たと書かれています。だとすると、小生が聞いた「発砲だ!」との声は、この威嚇射撃のことで、辻褄は合います。しかし、マスコミ報道では威嚇射撃については触れられていません。むしろ、警官が発砲しなかった(犯人を逮捕した警官は確かにそのようです)ことの是非が話題になっているようです。
銃については、カタ山ペシ郎さんも、「誰かが「銃を持っている」と叫んだ(厳密には叫んだのか,ただそう思って言っただけなのか分からないが)のが聞こえた記憶があります」と書かれ、誰かが何かこれに類することを声に出したことは、確実そうです。
小生は、灘雅輝さんの仰る「発砲音」を聞いた覚えは無く、誰かの「発砲だ!」との声を聞いて逃げ出しました。しかし逃げつつも内心「でもあの『ドカン!』という音は交通事故のような気がする。発砲音ではないのではないか」などと思っていました。後で古澤書記長たちと無事合流した際、小生は元自衛官の書記長に真っ先に尋ねました。「あれは発砲音か?」書記長は、自分はライフルなら詳しいけど拳銃のことはあまりよく知らない、と断りつつも、「あれは(発砲とは)違う」と答えました。
もちろん、ここで話していた「音」とは、結果的にはトラックが人をはねた時の音です。つまりそれ以外の発砲音(のような音)を、我々一行は認識していなかったのです。なお、やや話はそれますが、トラックがジグザグ走行して人をはねた、というようには、少なくとも小生のところからは見えませんでした。灘雅輝さんも同様のご指摘をしておられるかと思います。
また、報道では、犯人が叫び声をあげながら人を刺して回ったといいますが、灘雅輝さんが書かれている通り、小生もそのような音を聞いた覚えはありません。
音の記憶、というのは視覚以上に曖昧になりやすいものなのでしょうか。
以上ご紹介させていただきましたお3方は、様々にご自分の行動を省みられ、この事件の衝撃が今なお尾を引いておられるようで、また小生と同道していた古澤書記長がいろいろ書いたりしているのも(書記長は元々気分が乱高下しやすい人だったとは思いますが)、衝撃が影響しているのだと思います。新聞では負傷者・遺族の「心のケア」について警察が積極的に取り組む旨が出ていましたが、こういった方々までは流石に手も回らないでしょうし、ブログなどで書くこと自体が回復の役に立つことを祈るばかりです。
で、正直に言えば、小生は「心のケア」という言葉が嫌いなのですが、それにしたってフラッシュバックも無ければ夢一つ見ません。もしかして加藤容疑者並みに「心無い」人間なのかと思ったりもしてしまうのですが、或いは防衛機制が強力に働いているだけなのかもしれません。
さて、小生はこの事件に出遭ってしまって、見たことや思ったことについて幾つか書いてきましたが、一つ書いてなかったことがあります。犯人について、です。
犯人については、「主観的記録」で書いているように、小生は直接それと認識して見た訳ではありません。ので、直接的に何か感情が湧き上がってくる、という心境には、すぐにはなれません。通り魔の大量殺傷事件でありがちな、「誰でもよかった」という殺人者について考えるとき、そして今回の事件(参照1・参照2)でも、小生の頭に真っ先に浮かんだのは、世界の(といっても大部分欧米なのですが)殺人事件の記録を数多集めたサイト「殺人博物館」(「マジソンズ博覧会」内コンテンツ)で、カナダの大量殺人犯マルク・レピンについて書かれた記事の冒頭です。
語りベの立場から云わせていただければ、大量殺人はつまらない。あらすじがいつも同じだからである。ワンパターンなのだ。「誰でもよかった」大量殺人犯どもは、皮肉にも彼ら自身が「誰でもよく」十把一絡げに「大量殺人犯」のタグで括られてしまうのです。
大量殺人者の多くは、己れを「ひとかどの人物」だと信じている。しかし、その実際はちっぽけなゴミなのだ。そのギャップに彼は苦しみ、己れを認めない世間に毒づき、思い知らせてやろうと牙を剥くのだ。それは復讐であり、売名でもある。多くの命と引き換えに彼は歴史に名を残し、己れが「ひとかどの人物」であったことを証明するのだ。だから、彼らについて語ることはそれこそ思う壷なので、出来ることならやめるべきだ。しかし、彼らの惨めな生涯を晒しものにすることで追随者を抑止する効果もあるかと思う。
これだけは云っておかなければならない。
殺人者をアイドル視してはならない。彼らはいずれも正視に耐えないほどに惨めな落伍者なのだ。(以下略)
この例示が不謹慎と思われるのであれば、今さっき検索して見つけたものですが、今回の事件の2月前に、NHKで斉藤環氏が論じた内容をリンクしておきます。
視点・論点 「誰でもよかった」
斎藤氏は上掲リンク中で、土浦と岡山の事件を例に引き、
こうした匿名性という視点からみるとき、「誰でもよかった」という言葉は特別の意味を持つように思います。もちろんそれは、「殺す相手は誰でも良かった」という意味だったでしょう。しかし、本当にそれだけでしょうか。二人の容疑者が偶然にせよ同じ言葉を口にした事実は、この言葉を象徴的なものに変えます。もしかすると、今回の加藤容疑者は、携帯電話の掲示板で犯行予告をしていたということは、「自分自身の存在証明」に対するこだわりはまだ持っていたのかも知れません。
私には、この言葉が彼らが自分自身に向けた言葉のようにも聞こえるのです。匿名性の中に埋没しつつあった若者が、「これをするのは自分ではない誰でも良かった」と呟いているように聞こえるのです。
かつて、若者による動機の不可解な犯罪の多くは、犯罪行為による自分自身の存在証明のように見えました。自分自身の神を作り出したり、犯行声明文を出したりという形で、それは表現されました。
しかし、今回の二つの犯罪には、もはや殺人によって何ものかであろうとする欲望の気配も感じられません。自分自身の行為すらも、半ばは匿名の社会システムに強いられたものであり、たとえ犯罪を犯しても自分の匿名性は変わらない。そのようなあきらめすら感じられるのです。
しかしもちろん、この事件を風化させようというのではないのですが、加藤容疑者の身勝手な存在証明に付き合ってやる謂れはありません。
この事件に関する社会の対応は、先ず一つが加藤容疑者の不安定な派遣社員とその孤独という方向に関心が向かっており、またもう一つの直接的影響として秋葉原の歩行者天国の中止ということがあります。
派遣社員の問題、孤独や匿名性の問題、これらは今回の事件があろうとなかろうと問題として存在していたことです(事件2ヶ月前の斎藤氏のコメントは、本件にもある程度適用可能でしょう)。一方、歩行者天国の中止は直接本件に関わることです。歩行者天国の中止自体はパフォーマンスの過激化などで以前から話がなくもなかったのですが、それとこれとは別問題です。興味深いことに、「地元の町会」も、或いは「オタク」の方向の人も、こもごも「近頃の秋葉原の治安悪化」を理由に歩行者天国の中止に賛成している事例を見かけます。思うに「地元」が秋葉原の近況を嘆くのは「オタク」な人の流入による雰囲気の変化にあるようで(NHK番組による)、一方「オタク」は近年の観光地化による非「オタク」の流入を雰囲気の変化を批判しているようです。
それはともかく、以前からあった問題について、本事件をきっかけに(しかしあくまで「きっかけ」として)考えることに意味はあるだろうと思います。しかし、個別的なこの事件について、その影響を過大にとどめるべきではないと考えます。それこそ、加藤容疑者の「思う壺」になってしまうように思われるのです。
それほど秋葉原に思い入れがある、というわけでも小生はありませんが、この街の歴史について以前思い付きをちょこっと書いたりしたこともあり、このような経験をしたあとでは、この街に歩行者天国廃止という形で加藤容疑者の爪痕が残ることは、端的に言って腹立たしいことです。この事態の改善のためには、何がしか一臂の力を、とも考えています。そのためもあって書記長の活動は注視しているわけですが。
これも以前、柴田翔の小説をネタに書いたことがありましたが、秋葉原という街の成り立ちというのはそもそも露天商を鉄道の高架橋の下に押し込んだことに始まったわけで、露天の道路での自主的活動(?)というのはそもそも秋葉原の存在そのものと密接に結びついているのだ、とまあ思ったりもするのです。
あと一つ、今回報道では比較的「『オタク』の危険な犯罪」というありきたりの図式は少ないように思われたのですが、そんなときにわざわざ宮崎勤の死刑を執行して、90年代初頭のバッシングを想起させるというのは、なんだか陰謀論めいた発想をしたくもなってしまいます。
ちょこっと書くつもりだったのに、存外長くなりました。時間も掛かって、自分の筆力の低下に憮然とするばかりです。その割にちっともまとまっていません。もともとまとめられるようなことでは、ないのでしょう。
まだ思うところも、細かい事実関係で書いていないこともありますが、ひとまずこの辺で一区切りとします。最後に、戒めの言葉を引用しておいて。
私たちの目の前で生じた事件でさえも、私たちがその痕跡からただちにそれらを評価し認識することはほとんど常に不可能である。ましてや未来の事件がどのようなものになるかは、私たちの予想をはるかに絶したことなのである。(ソルジェニーツィン「自伝」)
発表がなかなかないですよね。ふと亀山郁夫のドストエフスキー
のカラマーゾフの兄弟を読んで思ったのですがイワンの語る
すべて許される神すら裁く大審問官の思想と加藤容疑者の
ニヒルなタナトスの衝動は近いものがあるなとふと感じました。
それは別として、墨東氏の言われるように、小生も加藤容疑者はありふれた通り魔として括られると思っていました。
しかし、本人にその意図があったかどうかは別として、今日の雇用システムが抱える「リスク」を浮き彫りにしてしまい、「テロリスト」に転化されている感があるような気がしてなりません。
加藤容疑者が「ランボー」になるのかどうか興味のあるところです。
やはりそれは、目撃者の証言を集めても(集めるほど)難しいことだろうと思います。自分でも痛感しました。
ところで恥ずかしながらドストエフスキーは読んだことがありません。ソルジェニーツィンは結構読んだし、あとトルストイも多少読んだのですが・・・
>無名さま
「リスク」を認識することは大事ですが、しかしまた容疑者本人を「テロリスト」にしてしまうことは、その「リスク」認識の上でも必ずしも適切な対応ではないかもしれないと思うのです。うまくまとめられていないのですが。
やはり活動していたかたの発想は違います。
ご紹介ありがとうございます。
鈴木邦男さんの文章は、「出血多量よりも、『言葉の力』で死ぬ人の方が多い」など、「はっ」とさせられるところが折々あります。酸いも甘いも、というか、右も左も噛み分けた方の重みと思います。
古澤書記長のあの場での喋りは中々立派だったと思います。鈴木邦男さんも関心を持っていただけたようで、何よりです。
余談ですが、小生も「目撃青年」の片割れです。鈴木邦男さんに、ご著書にサインしていただきました。家宝にします。
コメントありがとうございます。何かのお役に立ちましたら嬉しく思います。
「自爆行為」に走る連中は、かなり普遍的に存在しているのではないかと思います。ただどうやって自爆するかは、社会の状況によって変わってくるでしょうから、そこからその社会の特徴を読みとることも出来ると思います。