岩手・宮城内陸地震から1ヶ月
13名の方が亡くなられ、10名の方が依然行方不明という大きな災害で、崩壊した土砂によるダムはなお解消されておらず(だいぶ作業は進んでいるようですが)、道路などの全面的な復旧の目処は立っていないようです。仮設住宅の入居が始まったということは先日報じられていましたが、「仮設」は仮設であって、復興はまだまだかかりそうです。むしろこれからの方が、関心が薄れるだけより大変になるかもしれません。
なによりも小生にとっては、この地震で鉄道博物館学芸員の岸由一郎さんが亡くなられたために、今日このことについて一筆ものさずにはいられなかった次第です。
岸さんを喪ったことの重さはむしろこれから次第に明らかになってくるのであろうと思いますが、小生としましては、自分の出来ることで岸さんのなした仕事の一端なりとも受け継ぐことが出来れば、そう思っています。そのようなことができる可能性のある立場に自分がいる、ということをよく自省して、今後励んでいかねばと思います。
被災地の復興と、行方不明者の発見と、亡くなった方々の絶たれた意思の継承とを願い、しばし合掌。
本当にグダグダな個人的思いなので、それを気にしない方だけどうぞ。
先月の出来事のことを思うと、やはり地震とともに身近で関係することとなった秋葉原通り魔事件と、つい引き比べて考えてしまいます。
これらの事件や災害で亡くなった方は、不条理な突然の死に見舞われたと受け止めれば、同じことと考えることもできるのではないかと思います。
そして、こういった突発的事態に襲われた人々や地域が、いかにして元の暮らしを取り戻し、かつ亡くなった方々を記憶にとどめるか、という課題も共通した点が少なくないであろうと思うのです。これはまた、事故でも同じことだろうと思います。
しかし一方、災害と犯罪とでは大きな違いが一つあります。「犯人」がいるかいないかということです。
もちろん災害でも、四川省の大震災では手抜き工事で校舎などが倒潰、多くの犠牲者が出たと聞きます。そういうこともあるでしょうが、基本的には災害には犯人はいません。
事故の場合は、時として「犯人」はいます。しかし小生がこれまで、幾つかの事故について文献を紐解いて感じたことは、直接の現場での犯人探しは、事故再発防止のために役立つものとはいえなさそうだ、ということでした。
うまくまとまらないのですが、大きな打撃を受けたとき、社会がそれをどう処理して元に戻して、出来ればより良い社会を築くのかというとき、犯人探しや糾弾というのは、手っ取り早い方法ではあっても、必ずしも有効ではないのではないか、そう思います。いや、安直にみんなが声を揃えて叫んでストレス発散できるという点では一番有効なのかもしれませんが・・・。
結局前に書いたことと同じですが、おまじないや呪詛の台詞で事態を解決したと思い込まないことが大事なんだと思います。直接被害に遭われた方々については、なかなかそういう気持ちになれぬこともあろうかと思いますし、そういう方にはまた別な手立てもあるでしょうが、社会の圧倒的大部分の人、つまり一定の距離を置いて事態に接することが出来る人は、そうして欲しいと思うのです。距離があるからこそ出来る事だって、あると思うのです。
地震という災害は、その点安直な犯人探しをしてストレス解消をするわけにはいかない訳ですが、これが起こった不条理で悲惨な出来事を社会がどう受容し、そして明日に繋げていくのかというときに、どのような差異を齎すのかということには、関心があります。具体的には、報道やその消費のされ方が違ってくるでしょう。そしてそれば、爾後の様々な政策に影響を及ぼすのか、そうでないのか。
しかし、最近つらつら思うことがあるのですが、「好き」とか「愛」とかで自分を支えるということは実は結構難しいことで、「嫌い」や「憎悪」の方がずっと楽に出来るんじゃないかと。
きわめて困難な状況に追い込まれた人々であれば、それもまた致し方なきことと思いますが、ある程度距離の取れる人間であれば、せめて少しでも「好き」や「愛」で自分の人生を作っていきたいと思うのです。なお、先月の小生の諸経験も、所詮「距離の取れた」話に過ぎないと自覚しています。
なんだか本題から逸れまくったグダグダで済みませんが、ひとまずこれにて。
グダグダなりに、しかし「好き」の強い思いで業績を残された岸さんへの手向けとしては、それほど頓珍漢でもない、そう思っておきます。
※追記:若干舌足らずの箇所を後刻補足。それでもグダグダは変わりませんが。
※更に追記:この記事に関連したことをその後書きました。