ロフト「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」レポ(1)
今回のイベントの主旨と参加者は、ロフトのサイトから書き写すとこんな感じです。
「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」
秋葉原通り魔事件は単なる半狂人による特殊な犯行ではない。宮崎勤幼女殺人事件、オウム事件、酒鬼薔薇事件と続くこの20年の社会の闇の部分──若者達の不満や怒りを見据えないと、事件の真相は見えてこない。『現実でも一人。ネットでも一人』という絶望的な状況で人は脱社会化するしかないのか?
【出演】宮台真司(社会学者)、東浩紀(哲学者/批評家)、切通理作(評論家)、雨宮処凛(作家)、月乃光司(こわれ者の祭典)、タダフジカ(ギタリスト)、他
【司会】藤井良樹(ルポライター)
18:30開場、19:30開始と聞いていましたので、開場の10分ばかり前に新宿ロフトプラスワンに行きました。途中、若い警官に職質というか「鞄の中身を見せてください」と声をかけられました。今まで秋葉原に散々行ってもそんなことなかったのに。見せる前に「何故かかる尋問をなすや」とたずねたところ、「最近いろいろ事件があって、護身用とかで刃物とか持ったりする方もいるので・・・」とあまり歯切れの良くない答え。「事件とは一例を挙ぐれば秋葉原のそれなどか」と問い返すと「ええ、そうです」ということでしたので、「かかる事件の直接的経験は貴殿より我の方が勝らん」と応えておきました。
閑話休題、開場10分前に行ってみると既に行列が出来ています。流石に今回は阿佐ヶ谷のそれとは出席者の知名度が違うためでしょう。小生が入った頃には席はだいぶ埋まっていましたが、何とか机の前の椅子を確保します。会場はすぐに満員になり、入れなかった人もいたようです。
そして本題のトークに入りますが、例によって小生のメモですから欠落も多く、また適当にまとめながら書いていますので、発言をそのまま書き起こしているわけではありません。メモ取りと記事化の2度のまとめで、文脈誤認などもあろうと思います。この点ご諒承ください。「ここはこうだったじゃないか」というご指摘、歓迎します。
先ず第1部は、藤井氏(藤)の司会で宮台(宮)・東(東)・切通(切)の3氏がディスカッションをします。これが21時頃までという予定で始まりました。まず登場した藤井氏が、秋葉原の事件をはじめとする通り魔事件で亡くなった方々への哀悼の意を捧げるために会場に黙祷を呼びかけ、然る後にパネラー3氏が壇上に上がりました。小生が生で宮台・東両氏を見るのは初めてです(他の方々もそうなんですが)。
藤井氏と宮台氏がロフトでディスカッションするのは10年ぶり以上で、97年に酒鬼薔薇事件をロフトで取り上げて以来のことだそうです(このときの議論は『世紀末のリアル』に収められている由)。
藤:宮台氏はネットラジオの中でこの事件に関し東氏や雨宮氏と対談している。また洋泉社から本も出ている。これらを前提にしつつ、今日は更に突っ込んだことを伺いたい。
まずはじめに、ああいう事件は十年に一度必ず起きる。それに時々の人が、自分の言いたいことをかぶせて批判をしているだけではないか、ということがある(今回は格差問題)。しかしああいう事件は昔からある、ということについてはどうか。
宮:確かに、70年代を代表する事件といえば連合赤軍があり、80年代には足立の女子高生コンクリ詰め殺人事件と、いわゆる「M君事件」があって、90年代には酒鬼薔薇の事件があった。10年プラスアルファの周期とも見えるが、しかし周期の話をしてもしょうがない。
10年前に酒鬼薔薇事件の話をこのロフト(当時は場所が違ったが)でした時と、今日とは客層が違っていると思う。10年前はヤバい人が多く面白かった。今日は文化的に洗練されていて、朝日カルチャーセンターみたいな。10年前のロフトなら秋葉原事件の加藤容疑者を包摂できたかもしれないが、今のロフトではできない。
昨日は阿佐ヶ谷ロフトで、女の子を引っ掛けたり調教したりするにはどうするのが良いか、なんて話をしていて、聴衆が下ネタにドン引きしていたが、しかしそっちの方が自分としては会場に行きやすかった。客層が朝日カルチャーセンター的な今日は、話しにくい。明日、実際朝日カルチャーセンターで話をするし(笑)
東:「昔は良かった」的な話は会場を引かせるだけなので、事件について・・・
宮:伏線のつもりだった。「包摂」ということ。
包摂の世界が狭くなっている。今日は東さんにブログ論壇の話をして欲しいと思うが、閉鎖的なブログ論壇的な状況。(※このへんメモ不整)
東:ブログ論壇の話をしてもしょうがないが、狭くなっていると言える。今日この会場に来ている人でも、1/5くらいは自分の知り合いかネット上で特定できる人。
現在は、知識人が何かを時代の象徴に祭り上げる、そのことを批判する方が優位で、かっこいいと思われている。
切:同意。
東:2000年代に入ってから、論壇が社会学的・経済学的になってきた。何でもかんでも統計、実証を求められる。しかしそれを突き詰めると、こういった事件に対し何も言えなくなってしまう。「こういうことが起こっている」と説明しても、「エビデンスは?」で終わってしまう。コメントすることに過剰に萎縮してしまう。宮台氏の言う包摂の余地がなくなる。
切:だからこそ、東氏が事件について朝日新聞紙上で「テロだ」と言ったことに賛同する。
加藤は世界を勝ち組と負け組に分け、自分をいつも下に位置づけ続けた。「自分は負け犬」と韜晦した。そういう感覚を持ってしまっていた。
宮:エビデンスを求める側について、特別な場合ではあるが弁護を試みれば、加藤の文章は主観的で、客観的状況より主観的なものを読み取るべきもの。その際、読み手は加藤の主観を膨らませることになるが、そのことの責任をちゃんと感じろということだろう。
東:池田信夫が、朝日紙上の自分(東)の言説について、「東があんなことを言うからネットで加藤が聖人に祭り上げられるんだ」などと批判したが、それはインテリの自意識過剰。自分が朝日に書くよりも先に、ネットで加藤は聖人化されていた。そのことを自分が報じただけ。
それとは別に、加藤がネットに書いたとされる文章は、「非モテ」や「派遣」の一つの典型、ステロタイプ。(※この間メモ不整)自分は社会学者ではないのでエビデンスのないことを言うが、加藤にネットで共感した人が皆派遣・非モテ・25歳・男、とは思えない。あるステロタイプへの共感である。それがマスコミには見えていない。
この事件は赤木智弘、もう一人のトモヒロ((C)宮台)とネットでは結び付けられているが、そのことはマスコミに分かっていない。ずれている。
藤:マスコミ報道は模倣犯のことに収斂している。
東:通り魔の模倣犯は非常に問題だが、ネットの犯行予告など大した問題ではない。捕まえればいいだけ(それに警察のリソースが注がれすぎるのは問題だが)。そこへ収斂するのは的外れ。秋葉原のことについて語るべきと思う。
藤:宮台氏はこの事件についてあまり語りたくないという。その理由は「同じことの繰り返しになるから」ではない、そうだが。
宮:自分は昔フィールドワークをやっていたし、その後も若い人と接し、またギャルやその周りの男(いわゆるギャル男)とも接している。ので、若い人たちの言語ゲーム(マスコミが拾えていない)について知っている。だからこの事件については、その中、近いところにいる若い人が語るべきだと思う。東氏の言うように上の世代とはズレがあるので、架橋はしようと思うが、若い人に対しそういう話をすること自体に気が進まない。ゼミの学生への説教と同じになるから。(※この間メモ不整)
社会学者は分析者であって説教は仕事ではない。
東:今日思っていることは、自分がこの事件に関しいろいろと語ったのは、「近そうな事件」と感じたからで、それでこのイベントも引き受けた。細かいことはいえないが、自分と同年代か上の学者はこの事件に関心がない。しかし関心がなくていいのかと自分は思う。
一方、いわゆるロスジェネ(氷河期世代)論壇ではこの事件について盛り上がっているが、本当に派遣がこの事件の原因なのかと思った。自分の書いた記事が2ちゃんで話題になってスレが8か9まで伸びたが、それを読んでも書き込みが皆派遣というわけではなく、ぼんやりした共感がある。
切:酒鬼薔薇事件の時のように、犯人が書いたもの(「透明な存在」とか)を熱心に追究するようなことが、今回の事件では無い。そういうことへのリアリティがない、そういうふうに読み込んでいく、包摂するステージが当時はあったが、今はないのではないか。
藤:自分はオウム事件で「朝まで生テレビ」に出たとき、元新左翼でもあったし、また会場が沈滞しているように感じたので、オウム事件について「やられたと思った」と言って引かれた。今回はそういう共感はなかった。
宮:オウム事件当時、鶴見済のハルマゲドン言説に人気があった。ハルマゲドンは来ないけど、だから・・・という言説が共感を受けていた。オウムはそこで自分でハルマゲドンを起こそうとした。しかし今回はそうではない。
東:その比較は難しい。その後10年余で、世代間問題がメディアの住み分けと一致してしまった。論壇という場から若い人たちが撤退してしまった。自分なんかがんばってる方ですよ(笑)。若い人は2ちゃんなんかに行ってしまい、2ちゃんではこういう事態が起きているんですよ、と言っても上の世代には通じない。「証拠は?」となってしまう。架橋する必要がある。
そういったことが見えにくくなった。今までのように部数や視聴率で影響力を測れない。ニコニコ動画の再生数とか新しいものがあって、見えにくい。だからこういった分野の状況について語るには、証拠が従来のように出せないので、勘でやるしかない。
切:結局そこは、自殺報道をすると後追いが出るからしないとか、鶴見の本(『完全自殺マニュアル』)を売らないとか、規制になってしまっている。(※この間メモ不整)
宮:15年前、『サブカルチャー解体神話』のフィールドワークをした結果、性への期待が下がって宗教への期待が上がった、ということが分かった。サブカルチャーを見ていれば分かる。
性への期待とは、欠けている自分を承認してくれる、「そんなあなたが好きなんです」というのだったが、しかしそれは80年代に、絶対に無垢に承認してもらえる→ロリコンへと変化していった。そこで、都市生活者として「うまく生きている」人たち(風俗嬢など)は、宗教的な、或いは自己啓発的なものへと移行していった。
90年代にブルセラや援助交際が流行るのは、女の子の性体験率が倍増した結果、むしろ性への失望が広がったから。だからセックスするなら金になる方がいい、となった。90年代後半には、援交が勝ち組、とんがった子のものから、アダルト・チルドレンなど承認不足な人たちの承認獲得手段になった。そして女の子が性的視線を遮断するようになり、ガングロが流行る。ガングロたちはそうでない子を「白ギャル」と呼んでバカにした。
この流れに引きずられて、男の間でも失望感が広がってゆく。ナンパ系は痛いと思われるようになった。自分は昔からコアマガジンで記事を書いていたが、90年代半ば以降、コアでエロ雑誌を作っていた同年代の連中がアニメ系やパチンコに移行して行った。彼らが言うには「女って面白くない」と。
まだ続きがあるが長くなるので端折って、この歴史を踏まえると、加藤容疑者のような「モテ系」対「非モテ」なんて視点は、いったいどこでそんなものが生まれたのか。性愛の最前線での失望感とは異なるものをなぜ加藤は持っていたのか。一方、ゼミの学生に「ゲームなんかより生身の女の子と付き合えば面白いのに」と以前言ったら、「ゲームの女の子のように生身の女の子が振舞ってくれたら付き合います」と言い返された。コアなオタクも「ゲームの女の子の方がいい」とやはり失望している。
藤:それは、加藤が特別なのか、或いは共感されるものなのか。
切:本田透のような「二次元がいい」という言説があり、加藤はそれを真に受けたのではないか。それでアクセスしてみたらそうではなかった、というのでは。
東:普通に見て加藤はオタクではない。彼の書いたものを見ると、オタクという言葉はほとんどなくて、非モテ系の方が多い。
宮台氏の話に繋げると、これもエビデンスはないが(エビデンスなしに話をしているが、宮台氏の仕事を軽視しているわけではない。あのようなフィールドワークによる仕事は大事で、現在に合わせて誰かがあのような仕事をするべきで、『動物化するポストモダン』はいい加減)、モテと非モテというのは、周りの男からの承認の問題ではないか。だから彼女がいても非モテということはある。
自分の読者に最近、彼女のいる男が多いことに気づきびっくりした。また、娘が出来たのでサイトに写真を張ってみたりして、「ファミリーな自分」を演出してみたりもしたが、読者は変わらなかった。
結局、男の承認の問題。
宮:それはある。自分のゼミでナンパしている男を見ると、ナンパした女のレベルが低い。そのことを言うとシュンとなる。
昔と比べ「ヤった」ということの意味づけが低くなってる。昔はヤれたかどうかが問題だったが、最近は愛を問題にしている。
東:非モテには2通りの問題がある。非モテの中には男の承認を求める人と、運命の出会いを求める人とがいる。宇野常寛氏がコミュニケーション能力を上げれば云々と言ってるのは前者の方。後者の人は結構ヤバい。
コミュニケーション能力を上げればいい、ということではない。非モテとは何らかの不全感。彼女のあるなしは関係ない。
藤:東氏が加藤を「テロだ」と新聞に書かれ、そこで秋葉原に行くしか回路がなかった、というところに感銘を受けた。
しかし、加藤に全く友人がいない、というわけではなく、付き合っていた女性もいたと週刊誌などが報じているが・・・
宮:これは公表されないが、どの大学でもやっている調査で、「相談する人が1人もいない人」の割合というのがある。大体1割くらい。自分が学生の頃は、50人の語学のクラスで1人だった。助手の頃は4~5人、今は6~7人くらいか。
カテゴリが変わってきた。そのため、年の離れたカップルがあるときから急に成立するようになった。年上のおじさんに承認を求めたから。自分の妻も20歳年下で、結婚まで考えた男性がいたりしたのだが・・・
東:略奪婚だったんですね(笑)(※この間メモ不整)
切:加藤についての報道で、ワイドショーに元彼女が出ていて、「自分の話を彼にするだけでなく、自分も彼の話を聞いてあげればよかった」と言っていたのが印象に残っている。
宮:96年からアダルト・チルドレンのブームがあり、自分の承認欲求ばかりで人の承認を受け入れない。切通さん指摘の加藤の彼女もそう。
藤:だから(承認の点で)オッサンならよかった。
東:どんどん本質から外れている(笑)
宮:まあ本質は分かりにくい。
「キレる」事件そのものは、心理学者などの専門家にはむしろ分かり易すぎる。抑圧型パーソナリティ(※この用語が聞き間違えていないか自身がありません。この手の用語に疎いので)、良い子が暴発するタイプ。パターンとして分かっているから専門家はあまり話したがらない。
しかし暴発するということは同じパターンでも、何によって抑圧を溜めているのかは考える必要がある。これはエビデンスを出して実証云々では見えてこない。
本質から外れた話のようだが繋がってくる。今は抑圧感が強い。昔はナンパに成功して性交すれば解けたが、今はそうは行かない。
東:腰を折って悪いが、話を戻したい。
雨宮氏らはそのような抑圧を社会が生んでいるのだ、と主張している。一方それに対し、ラテン的に気楽に生きればいいのではないか、という意見がある。
宮:社会学的には、後者の方が正しい。
東:雨宮氏らは、社会が人々を経済的に抑圧に追い込んでいる、という。
宮:そのことについては前に防波堤を張っておいた。
ギデンズの議論では、グローバリズムや格差というのは不可避なのであって、人々がそれに直撃されないようにはどうするのか、ということを検討する。そこで社会的包摂となる。
例えば、沖縄は統計的に見れば失業率が高く平均所得も低く、状況が悪いようだが、実際に行ってみると「良い社会」。社会に問題があるから、直ちにそれが個人にとって良くない、とするのは飛躍。ベーシックインカムを導入したところで、包摂されない人は暴発する。
東:宮台氏の意見に賛成。
ロスジェネ論壇について思うのだが、自分たちは既存の政治と切り離されていたのが、自分の問題を経済問題を介することで政治に繋がるのだ、としている。ブログ論壇の閉鎖性は、それはダメだが、しかしそこに行き着くしかなかった。その閉鎖性を、社会に繋げていく上で、ロスジェネ論壇の言葉は希望になる。
切:しかし包摂が大事、気楽に生きればよいといっても、それによって格差などの問題をそのままにしてしまって良いのか。包摂と同時にそういった問題の解決も図る、二方面作戦が必要ではないか。(この発言メモ不整)
宮:切通氏は良いことを言われた。包摂は社会的格差社会的格差を放置したまま人々を馴致するものになってしまう。経済的排除を正当化する。だから民主制が大事になる。絶えず異議申し立てを受け、絶えず正統性を作らないといけない。白か黒かは明確には言えない。
藤:酒鬼薔薇事件の時、「いじめをなくす方法」として宮台氏が言ったことが印象に残っている。クラスを廃止して、人間関係に流動性を与えるというもの。
流動性と包摂について、どのような政策があるのか。イギリスの例などを伺いたい。
宮:日雇い派遣を合法化したのはイギリスと日本だけ。そしてイギリスは廃止した。移民第一世代は日雇い派遣でもいいが、定着した二代目以降はそうはいかないため。日本は移民というバッファーがないため、すぐにそれが問題化した。
またイギリスには昔ながらの「旦那」的な伝統がある。ギデンズはそれを利用して包摂の支援をしろという。国がやるよりも、社会が持っているメカニズムを利用しようというもの。
藤:日本でも社会的包摂はやらざるを得ない。
宮:自分の悩みと思ったことが実は社会の問題なんだ、と思うことでバラバラになった人間をまとめることはできる。これは創価学会が成功した方法。
だから雨宮氏に対して、その運動自体には意味がある、と思う。
東:この問題は難しい。資本主義の行き着く先となっているから。派遣の禁止などは問題ではない。
宮:ウォーラスティンが、先進国の国内格差の解消なんかにどんな意味があるのか、と言っている。この間、南の世界の人たちはどうしているのか、ということを考えれば、そんなことは問題ではない、という。
東:それを言うと雨宮氏たちから叩かれる。そのことを、雨宮氏は「犠牲の累進制」とか言っていた。
宮:自分も政治的には雨宮氏を否定したくはない。しかし、議論としては、ウォーラスティンの前に雨宮氏の議論が通用しないことははっきりしている。
東:実際の対策としては、社会的包摂のネットワークを張り巡らすしかない。「負け組」でも楽しく生きる。
切:「勝ち組」・「負け組」という言葉があまりに広く意味を包摂しすぎたのが問題。それが全てと感じてしまう。
東:戦後の高度成長期にサラリーマンが増えすぎて、生き方の多様性が日本では失われてしまった。その多様性を教えることに失敗している。
宮:その指摘は大事。自分は先週まで沖縄で「ちょんの間」のフィールドワークをしていた。そこの女の子のレベルが高いのだが、子持ちが多い。そしてちょんの間をやりながら子供を育てている。そこで有名な例では、この仕事をしながら子供二人を医学部に入れた人がいる。包摂のしくみが生きている。
「勝ち組」「負け組」で言えば沖縄は経済的には負け組。でも包摂で言えば負けてるのは本土。
つまらない物差しを当ててしまう。「非モテ」「モテ」にしてもそう。
東:その物差しを変えることはできると思う。しかしその考え方は雨宮氏には批判されるだろう。
藤:ではその話は、雨宮さんが来てからしましょう。
東:いや、来たらこの話はしませんよ(笑)
藤:多様性は、昔に比べれば今はあると思う。例えばお笑いがモテたり、背が低いジャニーズもモテる。
宮:社会学で有名なパラドクスがある。包摂は新しい排除を生んでしまう。例えばオタクが市民権を得れば、そこでオタクで承認されなかった人はどうするのか。そうやってどんどん包摂されればされるほど、包摂から取り残された人は更にきつくなっていく。
そこで流動性の高い包摂の共同体が求められる。
東:今の宮台氏のは唯一の現実的な解決策だと思うが、ここに問題がある。
人は何に縛られるのか。結婚しても、それが自分の決めた相手であるなら別れられる。それに縛られない。ネットの関係がダメだと直感されるのは、切ってしまえる関係だから。宮台氏の意見は、人は自分を縛るものを作れというのではないか。
宮:それは違う。(メモ不整)デートクラブのように、構成員が変わってもよりどころの場が受け継がれることがある。
東:部品が変わっても場が変わらないということか。しかしそれはどの場を選ぶのかということになってしまう。
切:何となくたまる場というものがある。加藤にそういう場はなかった。
東:ネットしか繋がる回路がなくてもやっていけることもある。例えば2ちゃんでコテハンのようにその場に居着いて離れられなくなるような。
最後は、人間は自分でどうしようもない地縁・血縁がないとダメなのか、ということになってしまう。そう思いたくはないが、最近はそうではないか、とも思う。
藤:16歳以上を歓楽街に立ち入り禁止、とすると、そこしか居場所がなかったような子は殺される率が上がる。アメリカで先例がある。
宮:東京で青少年に関するそういった委員をやっていて、答申を書いている。そこでは「包摂」をキーワードにしている。石原都知事も、就任当初の強硬取締姿勢と違って、包摂の方が格好いいと思うようになっているらしい。自分の携帯電話にしょっちゅう石原が「これは何だ」と電話してくるから、「包摂ですよ」と言ってる。
ロビイングは簡単、意思決定の力を持つ人間をこちらの中に包摂すればよい。イデオロギー闘争もいいが、カタルシスはあっても実効はない。言論を通じたカタルシス。
東:同感。Aと思う人をより強くAとするのに文章は効果があるが、Bの人をAとするのには使えない。ブログ論壇はその見本。
宮:ブログ論壇はそれはそれでいい。そういうことで包摂される人が多いから。
東:しかし、民主主義のアリーナは言論で戦うべきものであるはずが、結局は自分の立場を強化するだけになってしまう。
切:強化できる人は良い。加藤はネットで書いたがそれができず、はぐれてしまった。
東:それについては意見が違う。彼はできたはず。
切:いや、それでも救われなかったのでは。
東:いや、ブログで成功していたも尚車で突っ込んだのなら、救われなかったとなるが、加藤はそれ以前だった。
宮:横から口出しすれば、彼は2ちゃんにも書けなかった臆病な人だったから、ブログとかはできなかったのかも。
東:現在、ネットでのブログなどのサービスはタダ同然で受けられる。できるはず。
切:それでもダメだった。
(以後暫く東・切通両氏でやりとり続くも噛み合わず)
記事が長くなり過ぎましたので、ここで一旦切って(2)にまわします。
>コミュニケーション能力を上げればいい、ということではない。非モテとは何らかの不全感。彼女のあるなしは関係ない。
某書記長を見ていると、まさにその通りですよね。
>戦後の高度成長期にサラリーマンが増えすぎて、生き方の多様性が日本では失われてしまった。その多様性を教えることに失敗している。
日本人のライフスタイルの画一性(少なくとも、画一的だという認識が広く共有されていること)と、そこから生じる物差しの画一性は、現代日本の「生き辛さ」の根源ではないかと最近痛感しています。
>そうやってどんどん包摂されればされるほど、包摂から取り残された人は更にきつくなっていく。
>そこで流動性の高い包摂の共同体が求められる。
この点は自分も前から思っていたことでしたが、果たして現代日本でどうやれば流動性と包摂の両立が実現できるのか、具体的なイメージが沸かないところです。
古澤書記長の話を含めて、そのうちまとめ的な記事を起こす・・・かもしれません(苦笑)
ライフスタイルの画一性、というか、それが規範的な生き方になって例外がやりにくくなった、という点は重要と小生も考えています(このライフスタイル自体も、元々は更に昔のライフスタイルの規範性を打破するものだったんですけどね)。「幸福」のあり方がどう変わっていったか、そういう観点で見られると思います。
余談ですが、赤木智弘氏は、ある意味この規範にもっとも強くとらわれている人かもしれない、そう思うことがあります。
具体的なイメージは難しいですね。ありきたりではありますが、まず自分が出来る包摂からやってみる、というのが一般的な答えでしょうか。高度な理論構築を最初から目指しても、必ずしも事態の改善には結びつかないので。
中小零細企業の分だけ独立採算の経営者が存在し、倒産件数と同数以上に起業する人がいるということは、ライフスタイルの画一化という点で疑問が生じる部分です。
戦後日本の「ライフスタイル」とは、サラリーマン化というよりは、何らかの努力を行えば誰でも一定の成功を収めるという「幻想」にあると考えています。
そうですね、実態としてそのようなライフスタイルが多かったという以上に、それが「幸福」に至るメインルートであると思われたという、「幻想」の面で重要だったと思います。ただその後、「幻想」に実態が追いついてきている傾向はあるのではないかとも思います。