ソルジェニーツィン氏の訃報に接し思い起こしたことの一部
なお、完成が遅れに遅れていた「ウェルダン穂積氏主催アキバデモ見物記 及び『やまざき』氏との邂逅」は一応完成しましたので、今更ですがご関心のある方はどうぞ。でも実は完全に終わってはいませんが・・・。
表題の件につきまして。
今を遡ること十年余、当時中学生(確か中2)だった小生は、ソルジェニーツィンの『ガン病棟』を読んで、深い感銘を受けました。
ではそれは、とここで今すぐ書くことは出来ません。その感銘はあまりに深く、小生の世界観のある部分が確実に『ガン病棟』に影響されていると思うからです。物差しを作った基準を、そこから作った物差しで測ることは、この場合不可能でないかもしれませんが、大変難しいことです。それがすらすら出来れば、評論家になれるでしょうね。
一つ、本書が残した分かりやすい小生への影響を挙げるならば、本書の感銘があまりに深く、しかもそれが深すぎて自分でも分からないほどだったために、この本について(ひいてはソルジェニーツィンについて)かえって人と話すことはなかった、ということでしょうか。そしてそこから、感動はそれが自分にとって深くかけがえのないものであればあるほど、容易に他人と共通理解や共感できるようなものではない、そう思うようになりました。
なので、小生は、「これを読んで(見て/プレイして 等)感動した! 是非読んで(見て/プレイして 等)しろ!」と言う人間(の感動の程度)については、原則不信感を抱くようになりました。これは一般的な人間関係、殊に友人関係、そしてなんといっても恋愛関係を築く上で多大な障害を齎すものかもしれませんが、そんなことはどうでもいいのです。『ガン病棟』のシュルービンのように、死ぬまでに話のできる人間が一人見つかれば、それでいいのです。
※追記:関連した話をこちらに書きました。
そんな次第で、『収容所群島』は、身構えてしまってかえって読めていません。いつか、と思っていますが「いつか」なんてのはそうそう来るもんではありません。もちろん、東浩紀氏の評論も読んではいません。
ちょこっと、訃報に関するネット上の幾つかの記事を読んだりもしたのですが、『収容所群島』の著者であることをもってして、「共産主義の害悪と悲惨を世界に知らしめた」という感じの評価をしているところが散見されました。ですが、以下が小生の勝手な思い込みの可能性は否定しませんけど、ソルジェニーツィンの告発は、単にある時代と地域に限定されるものではない普遍性を備えているのだ、そう考えます。
ソルジェニーツィン作品が、史料になるほどある時代と地域をリアルに描き出していることは勿論で、それが第一義的に読んだ者に衝撃を与えるのですが、それはまた同時に、普遍に至る確固たる基礎でもあるのです。
考え出すとまた広がっていって収拾がつかなくなりそうです。ブログの記事としてはこの辺で締めておくのが適当なところでしょう。
ですが、簡単には解決の方法が見つけられないことについても、折々は考えてみる意味があるでしょう。そして、少しでも良い方向へ進めるように(ゴールは見えないし、たどり着くことも出来ませんが)、藤田省三の孫引きをすれば「陰気な顔して何になる」という、希望の源泉をもつことは大事だと思います。小生の場合、その際の手がかりとして、これからもソルジェニーツィン作品を座右に置くことでしょう。
「私の内部は、全部が私じゃない。ときどき、はっきりそう感じるんだ。何か絶対に撲滅できないものが、非常に高貴なものが、内部に巣くっている! 世界精神のかけらみたいなものだ。きみはそう感じることはないかね?」ソルジェニーツィン(小笠原豊樹訳)『ガン病棟』より
栄養失調などで生き延びる事が困難な収容所の中で、
a、生死を二の次にして、自分のプライド(道徳律)を守る
b、生死を第一に考えて、プライドを捨て(例えば弱者を見捨てて強者に味方)る。
の2つを比べた場合意外にもa、の方が生き延びる確率が強い(私のような凡人に実行はむずかしいが)そうです。
「収容所」は御話のとおり「共産主義」にだけあったのではなく、生産力の低い非民主主義国ならどこにも在ったし、戦前日本にも在ったはずです。
基本的にはロシアのナショナリストなので本質的には、ロシア的
家父長制を矜持していたのではないかと思います。
それゆえプーチンを支持していたのですし。
コメントありがとうございます。なるほど、確か『イワン・デニーソヴィッチの一日』の中でも、当局への密告者は生き残れない、と先達が教示する話がありましたね。信仰に回帰したソルジェニーツィンの軌跡を踏まえて、小生もいつか読むつもりです。
ハードとしての「収容所」的なものも遍在していたと思います(日本は多分、その点「マシ」な方かもしれません)。しかしそれ以上に心すべきことは、ソフトとしての「収容所」が、今なお、まさに今ここにも存在しているであろうということ、だと考えます。
ソルジェニーツィンのナショナリストとしての側面は、例えば「胴巻のザハール」なんかに明白ではありますが、ナショナリストはむしろ突き詰めると当局と対立することになるものです。そこで「公定ナショナリズム」が出てくるわけですが。
ソ連批判は共産主義批判であると同時に、往々にしてヨーロッパによるロシア批判という側面もあったのではないでしょうか。ソルジェニーツィンはロシアを愛したゆえにソ連に追われ、冷戦中の西欧とアメリカに歓迎されたという捩れた経緯があります。プーチン支持に至る意味合いはむしろ今後検討される課題で、多面的に考えていくべきと思います。単純にこうだと言ってしまうには、ソルジェニーツィンの世界はあまりに豊穣なものと考える次第です。
↑管理人様の気持と私の見解は近いとは思いますが、現在体制を問題にする話はチョット控えさして貰います。
ソルジェニツイン氏は収容所体験談の中で以下を書いてます。
「収容所内では、娑婆でゴロツキをしていた人たちと一般囚が同居なのだが、ゴロツキは場慣れしてるからズルばかりしてる。ウブな一般囚は時計や財布などを暴力的にゴロツキに略取されてしまう。
ただしゴロツキ内にはグループ戒律として、『一般囚の食べ物だけは略取してはいけない(生命に拘わるから)』というのがある。違反したゴロツキ構成員はゴロツキグループによりリンチを受ける。」
仮にソル氏の体験談が事実なら、ソ連のゴロツッキーは日本のそれより任侠の道に近いです。
「ソフトとしての『収容所』」というのは、現在の体制批判という意味ではなく(当てはまるところもありますが)、むしろ個々人の心の中でのものの捉え方や考え方として、「収容所」的なものを抱えている場合があるのではないか、というより精神的な意味のつもりでした。曖昧な表現ですみません。
『ガン病棟』の中ではちょっと違った話がありましたね。日本人の抑留者から食べ物を取り上げたロシア人のゴロツキ連中に対し、「ああいう連中をロシア人と認めない」と登場人物の一人が言います。彼はそのゴロツキと闘って負傷したのですが、ゴロツキにもいろいろいたのかもしれません。