へたり中 歴史教育に関するちょっとした話題
そんなわけで今日も一日寝ていたのですが、夏期講習のバイトがあったため夕方になって起き出して出勤。
職場でその辺に積んであるプリントをふと見たところ、中学生向けの社会の問題で、「慶安の御触書」を出題しているのがあってちょっと驚きました。なるほど小生も小学生の時分に習い(十数年前の話)、その後大学入試の時は世界史・地理選択だったので出会いませんでしたが、大学に入って「慶安の触書」は現物が見当たらない、類似したものはあったが、江戸時代後半になってから慶安時代に仮託してできたのがいわゆる「慶安の触書」である、と講義で聞いて感心したものでした。地方文書の発掘調査の成果ですね。
詳しくはこちらの本をご参照ください。
ちなみに、現在の大学受験の標準である山川の日本史教科書では、「慶安の触書」とは異なる触書を史料として紹介し、欄外の注釈で、この種のものでは「慶安の触書」が有名だったが、近年実在が疑問視されている、と記しています。
しかし、中学レベルの教材まではまだ浸透していないようで。
それはそれとして、今日も疲れたのでもう寝ます。
やることは一杯あるので、寝てばかりもいられません。寝台中で過ごしている間に、ロシアとグルジアが戦争したり、ムシャラフ大統領が辞めちゃったり、世間も騒がしいようですが。
地租改正(一種の固定資産税)に対する反対の原因はそこにあると思います。
尤も、測量などでかなりのインチキを行い農民側も抵抗しましたが。
江戸時代の平均収入農民(多分人口の80%)で、日常食に米を食べれた人はどの位の%か?という事です。
明治時代になって、義務兵役に付いた農民の内、実家では日常食に米を食べられなかった兵隊がかなり居た、と聞いてます。
彼らは実家では日常、蕎麦粉や雑穀、芋類を食べていたはずなんだが、はっきりした資料は無いです。
食物史に関する史料、主に民俗学の調査などは結構あったと思います。拙宅にも幾つかありましたが、今すぐ引っ張り出せないのが・・・部屋片付けないと。
ですが、確か、大正ごろの農民でも、米と粟など雑穀とを混ぜて食べるのが普通だったと記憶しています。米自体は食べるにしても、純粋の白米ではなく、いろいろ混ぜ物をして増やすのが普通だったようです。
で、都会に出たりすると純粋な米ばかりの食事(戦前の都市貧民の食する米は、輸入したいわゆる南京米でしたが)を喜んでそればかり食べ、脚気になったわけで。