秋葉原事件と「包摂」につき雑感 或は東浩紀氏に聞きそびれたこと
ところで、いきなり話は逸れるのですが、このブログのアクセス解析を某日ふと辿ってみたところ、ロフトの経営者・平野悠氏のページの掲示板からアクセスがあることが分かり、そして今月1日のロフトプラスワンのイベント「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」について、平野氏の感想が記されていることに気づきました。これが中々興味深い内容で、掲示板の記述というのはリンクもしにくければ消えることも多いので、以下にその大部分を引用紹介させていただきます。同じ文章はこちらの8月5日付け記事にもあります(が、5日付けの記事がえらくいっぱい・・・)。改行は一部改めましたが、その他は原文のままです。
ロフトプラスワン「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」これを読んで、既に書いたようにこの日のパネルディスカッションを面白いと思っていた小生、当初一読してウムムと唸りましたが(小生もまた、東氏の言う「難しい言葉で救われる人」なのでしょう)、ややあって考えるに、案外これらの発言は繋がっている面もあるのではないかと思うに至りました。
投稿者:平野悠 投稿日:2008/08/04(Mon) 10:48
一聴衆としての意見を書かして貰います。
・・イライラするだけのライブだったと思ったのは私だけか?
社会学者のおしゃべりになにも持ち帰ることが出来なかったのは私一人か?。
<イベント宣伝コピー>
秋葉原通り魔事件は単なる半狂人による特殊な犯行ではない。宮崎勤幼女殺人事件、オウム事件、酒鬼薔薇事件と続くこの20年の社会の闇の部分── 若者達の不満や怒りを見据えないと、事件の真相は見えてこない。『現実でも一人。ネットでも一人』という絶望的な状況で人は脱社会化するしかないのか?
【出演】宮台真司(社会学者)、東浩紀(哲学者/批評家)、切通理作(評論家)、雨宮処凛(作家)、月乃光司(こわれ者の祭典)、タダフジカ(ギタリスト)、他
【司会】藤井良樹(ルポライター)
一昨日プラスワンに久しぶりに行ってきた。な、なんと場内はソールドアウト。店長の話では200人近い人が入っていると言っていた。
社会問題系、それも夏休みで東京にはドンドン人がいなくなっている、さらには、月初めというのは案外客が入らないのだが・・・テレビの取材が入っていた。
当日私は血圧の調子も悪く、イライラしていたのかも知れないが途中から入って、あまりにもつまらなかったと言うよりひどかったので、途中(休憩中)で帰った。
話は秋葉事件の加藤容疑者の話が中心だった。
宮台慎司、東浩紀と言ったいわゆる社会学者が訳のわからんことしか言っていなかった様に見えた。満員の聴衆の中で私は切れまくっていた。
所詮両学者の自慢話のステージだったなって思った。
なにも私らを説得できていない。学者って私たち頭の悪いものにもちゃんと解るように喋らなければいけないって言うことを解っていないな。
所詮社会学者?なんて、人の個々の弱さとか、苦しさとかはは理解できないらしい。
やたら訳のわからん語彙を使いまくって、さらには「誰々の学説では・・・」と言ってしまう。
秋葉事件を単なるよくある社会現象としてとらえてしまっていた。
やっと社会的に弱い立場の人たちが団結して立ち上がろうとしているのにこの彼らは全くそこに近寄ろうとしない。理解しようとしない。G8の話題すら出てこない。
基本的に現代のグローバリズムな世界を肯定しているのだ。
だから、「ニート問題は解決しません」とか「運動自体は否定しませんが意味がない」「運動では社会は変わらない」と言った発言が出てくることに、私は一人?怒っていた。
赤木論文(希望は戦争)にも「それで赤木君はライターの仕事が成立して良かったじゃないの」には絶句。
東浩紀はなぜかはしゃぎまくっていて実にかっこ悪かった。
まともなのは切通理作さんぐらいだ。
藤井良樹は「この問題は面白いのでもっと続けよう」と場内の空気も読めていないと思った。
さらには憲法改正論者宮台さんの「石原慎太郎のブレーンをやっている。それが私のロビー活動」と言った発言には、もう「こりゃ~ダメだ」と思った。
確かに奴らは学者だから論理ではかなわない。論争を仕掛ける度胸はない。
しかし、彼らが社会学者?の領域に安住しているのを私は見ていた。
だから学者ってダメなんだって35年前の私たちが教授を追求したした事が思い出された。
これならまだ、田原総一朗とか久米宏の方が人間的だ。
ちゃんと両氏を批判するには、当日のテープを聴き直さなければいけないのだが、とにかく私は感情的についていけなかった。
月乃さんが、雨宮さんがどういう反論をするか見ていきたかったが、私はもうこれ以上聞きたくないと思って帰りを急いだ。
せっかくロフトプラスワンに出演していただいたのに、こんな事書くオーナーでした。すみません。出演者のかたがた。(以下略)
それは「包摂」と「場」ということです。
事件について様々な言説があり、更には様々な言説を生んでしまう構造自体を批判するという言説もあったことは、『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』にも明らかな通りです。小生は、元々ある意見を持っている人が、たまたま起こった事件にひきつけて自己の意見を語ることが悪いとは思いません。それを悉く批判しては、何も言えなくなってしまいますので。勿論目に余る場合もあるとは思いますが・・・(上掲書で言えば、リバタリアン蔵氏の書いたものは、アキバの事件がどうあろうと自分の「正論」が正しい、誰が逆らえるのか、などと書いており、いったい誰にどういうつもりで書いているのでしょうか)。
そう断った上で、このような事件のより少ない世の中になるように、おまじないではない対策としては、やはり宮台真司氏の指摘する「社会的包摂」のある世の中に近づけていく、ということが最も現実的な方法なのだろうと思います。国と個人との間の中間団体というものが、20世紀の日本では解体されていきました。その代わりになるかと思われた企業もバブル崩壊後はそういった余裕をなくしています。そこで、包摂の場を作り直すことが求められるのです。
と、そこまで考えたときに、小生は阿佐ヶ谷ロフトでの鈴木邦男氏の発言を思い起こしました。宮台氏の示す戦略は有効としても、今すぐ包摂を求める人にとっては十分具体的というわけではありません(他の論者よりは、おおむね具体的ですが。ナイフ規制などおまじない的対策はもちろん除きます)。然るに鈴木氏は、抽象学説抜きで、しかし同じ方向の、極めて具体的な解決策を示しておられました。
「一水会に入ればいい」
「包摂」の場を作るということであれば、雨宮処凛氏の運動も、はたまたロフトをこしらえた平野氏も、それほど隔絶したことをやっているわけでもないのではないか、そう感じた次第です。そして戦後日本でのこの最大成功例が、多分創価学会でしょう。
とまあ、小生とりとめもなく考えているうちに、新宿ロフトプラスワンでのパネルディスカッションの際、最後の質問の時間に言い出そうとしてうまくまとまらなかった、イベント自体は興味深かったけれど引っかかっていた、そんなことがらの全体ではないにせよ切れっぱしを、ようやく掴まえることが出来ました。
それは、「包摂の場を作るに当たって、ネットの役割果たして如何」ということです。
新宿ロフトプラスワンの「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」の中で、包摂の場を設けることの重要性については、論者の間で一致が見られています(包摂して「楽しく生きる」事が最重要か、それと社会改革運動とを二正面作戦で行うべきかの点については意見が割れていますが)。ですが、包摂の場とネットの関係については意見が分かれていて、しかも東氏と切通氏との議論が全くかみ合わなかったように思います(レポ(1)末尾参照)。図式的に切り分ければ、ネットで加藤容疑者に救われる可能性があったことを強調するのが東氏、それに疑問を呈するのが切通氏、という構図でしょうか。
更に図式的なことを続ければ、小生はここでの議論については切通氏の側に近いので、さてこそ表題のように、東氏に包摂の場を作ることとネットとの関係について、より深く聞いてみたいと思うに至った次第です。
ネットはもっぱら言語によるコミュニケーションツールなので、ただ漠然と「包摂する場」を設けるという点、参加者が「ああ自分はこの場に包摂されているんだなあ」と直接感じるためには、面倒な手段なのではないでしょうか。ネットの場では、ある程度相手を想定して、そちらに繋がる言葉を発しなければなりません。そして発言しなければ場にいると相互に認識できないのですが、これは結構面倒なことです。mixiのコミュニティのように、ただ入るだけで一員になるネットの場もありますが、その程度の場や加入具合で、果たしてどれほどの包摂の効果が生まれるのでしょうか。
あまりに古典的かもしれませんが、やはり直接会って同じ場所と時間を共有することの方が、場を育てる上では有効だと思います。特に、雨宮氏の活動の中にも「公園呑み」がありましたが、飲み食いを共にするということが一番効果があるんではないかと。なんだか民俗学や人類学みたいな発想ですが。
話が逸れますが、この点では呑みニュケーション大好きな、「革命的非モテ同盟」の古澤書記長は正しいかも、と思います。何せネット上で書記長が書くことは、しばしば格好つけて理論づけようとしてずっこけているにもかかわらず、書記長が多少の「場」を維持できているのは、デモや呑みなどリアル活動のお蔭に他なりません(このことを本人が一番分かっていそうにないのが笑いのポイントなのですが。書記長は内容証明郵便で探偵事務所に文句をつけたら「はてなブックマーク」がたくさんついたことを未だに自分の活動の最大成果と勘違いしている節があります。テレビにも新聞にもロフトにも出たのに、それよりも! そのことをいくら批判されても全く懲りていないのは、最近になっても「内容証明万歳」などと書いていることからも伺われます。まさに「はてな脳の恐怖」と題して森先生に分析していただく価値があると考えざるを得ません)。場を盛り上げて維持することが大事(「面白くなければ続かない」とは書記長の弁)で、言論の精緻さを上げることは必ずしもそれに優先するものではないのかもしれません。実際、「言論は仲間の結束を高める効果はあっても、反対者を説得する効果は少ない」と、ロフトプラスワンのイベントで論じられていますし。
ただし、あまりにいい加減では、仲間の団結すら出来なくなってしまいますので、全くどうでもいいというわけではないのは勿論です(ウェルダン穂積氏のデモの失敗は、身内かためすら出来なかったことにあるでしょう)。
その、イデオロギー闘争は不毛、といった指摘に対し、おそらくこの記事の先頭で引用した文章から察せられるように平野氏は不満と怒りを持っておられるようです。平野氏が政治の季節を乗り越えてこられた方であることを思えばそれもさもありなん、と思いますが、しかし実際のところ、政治運動を起こした諸団体にしたところで、理論ありきで行動していたわけではないのではないかと思います。簡単に言えば、メットかぶってゲバ棒振り回していた人々が、皆マルクス・レーニン思想に通暁していたわけではないだろう、ということです。言論は場を作るための道具として、その効力を発揮するのです(多分、「やまざき」氏が古澤書記長を「ガチ左翼」と勘違いしたのも、言論と場の関係を前者が優先と思っていたからでしょう)。
結局場を作って人を包摂することが、政治運動においても基本ではないでしょうか。人が集まれば人脈も広がるでしょうし、うまく行けばカネ・モノも集まることもあるでしょう。そうすればロビイングも有効に行えることでしょう。
例によって長すぎて書いているほうも草臥れてきたのでいいかげん締めにします(いつものことだけど)。折々友人に話していることを文字に起こそうとしただけなのに、何でこんなに面倒なのか。3秒で考えたことを書くのに3時間かかっても終わらないので。質問のある方は電話してください(笑)
だから、ネットという文字ばかりのメディアによる場の建設は面倒で、多くの人を包摂する場を作るには不適ではないかと、嫌というほど感じたのでした。
纏めると、場を作って包摂することが大事で、そのアプローチ方法は左右いろいろあるけれど、その際にネットの力は過信しない方がいい(地理的事情などで会いにくい人をフォローする、など使途を明確にすれば便利で有効でしょう)のでは、そんなところです。
そして付け加えるならば、包摂の際に気をつけるべきことは、何かを排除することによる包摂、ネガティヴ・キャンペーンによる包摂に陥らないようにすることでしょう(言論という面倒な手段に頼らざるを得ないネットでは、最も手軽な言論作成方法であるネガティヴ・キャンペーンがより起こりやすいでしょう)。包摂の境界線はあいまいにしておくに越したことはありません。その方が流動性の高い包摂が可能になります。
排除やネガティヴ・キャンペーンに陥らない為には、批判よりも自分が幸福になる方法を掲げるべきでしょうが、これはこれで難しいものです。何が幸福かなんて、分かったら苦労しません。それこそ人生かけて考えねばならぬことです。最初から明快なロードマップを示して「幸福」に至る道を示すことはかえって出来ません。だからこそ、先ず場を作ることを重視するべきなのです。
あと、この文章は幸福の科学への宣戦布告ですね()笑
とりあえず、腹が膨れ、周りに人が多ければ話の「場」が形成され、様々な情報、価値観の交換が可能となります。
タダ飯の「場」を作ることがこれからは重要かもしれません。(食事内容は、卵と味噌汁、漬物という贅沢な内容です。)
単にめいめい喋っているだけの場でも,ないとあるでは大違いですからね.書記長のすごいところは皆が彼を叩いているのに,何故か誰も離れていかないところで,これは君子の風格というやつでしょうか.
むしろ叩くために活動に参加している人間も。
僕は身内じゃないですよ~w
ま、オナニーに成功もクソもないかと。
この話題に関しては僕のインタビューが某所に載ると思いますw
こういう説があるそうです。
>松下幸之助は、成功する人が身につけていなければならないものを、3つ挙げたという。
>「可愛げ」と「運が強そうな事」そして「後姿」であると・・・
「後姿」はともかく、書記長には前二者はありそうですね。何を言っても突っ込みどころ満載で皆フルボッコに叩くのに、それがむしろ変な魅力であり求心力になっているあたり、「可愛げ」は溢れんばかりにあるのでしょう。
私の理解内容は
「演説内容の論理的緻密さは大前提ではあるが、アジを聞いてる側にはアジテーターの言説に1箇所破れ目があって、その穴から青天井が覗ける人」です。
>ラーゲリ氏
幸福の科学より、やっぱ創価学会ですよね。鳥肌実氏の仰るとおり、「尊敬するアーチストは、池田大作でございます」
>無名さま
工業米で安上がりに・・・と時事ネタはともかく、卵つきとは時代を考えると確かに贅沢ですね。
この手の場と運動について、無名さまは青年団や在郷軍人会を以前にも例に挙げておられましたが、最近所用があって書架から『国防婦人会』を引っ張り出し、久々に再読していろいろ感嘆しました。猛烈に成長して当局にのっとられてしまうわけですけど。
>板東α氏
やはり炊き出しには先立つものがありませんとね・・・
とまれ、やはり場を生み出せる人材、一種の起業家かもしれませんが、これは育成が難しい、特異な人材なのでしょうね。
>殖民地人氏
書記長叩きはネットでなく、リアルでこそ面白いですよね。リアルで叩いた方が本人も応えないから「いじめ」にならないし?
身内ならデモに来ないと(笑)
インタビューが載ったら、是非掲載場所を教えてください。
>某後輩氏
その「可愛げ」は、やはりリアルで会わないとなかなか味わえないものですね。で、そのことを一番わかってないのが当人というところが一番の笑いどころ。
>鈴木光太郎さま
なるほど、興味深い言葉をご紹介ありがとうございます。政治運動でも、理論が緻密すぎると息苦しくて、人が付いてこない事があるように感じられますね。
われらが書記長の場合は、あまりに青空がよく見えてしまうのが問題ですが・・・(笑)見えないよりは案外マシかも。
加藤被告にも高裁判決が下りましたね。判決自体はそうとしか言いようがないですが、ただ世間が例によってとっくに関心を失っていることが分かったことのみが収穫でした。秋葉原事件が提示した問題点は震災後、むしろ明確になってしまっているように思われるのですが。