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筆不精者の雑彙

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講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・坤

 講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・乾巻の続きです。
 完成まで、イタリア艦の如く時間がかかってしまい済みません。いろいろ忙しかったりなんだかんだしたもので・・・。

 本題に入ります。
 最後の講演である髙木さんの講演「『金剛型』機関部詳解・余談」も、三番目の大塚さん同様『決定版 金剛型戦艦』の内容に基づいており、これは大塚さんのお話以上に図がなくては理解できず、しかもレジュメの図面だけではなく、黒板に自ら図面を描いてのご説明もありました。ところが小生、この時爾後の打ち合わせや看板類の撤収などで席を外していた時間もあり、申し訳ないことですが、ますますメモが取れておりません。講演会後の打ち上げで伺った「なぜドイツの蒸気機関車はダメか」というお話なら、メモがなくても書けそうなんですが(笑)。やはり燃焼室がないと燃 / 萌えませんね。
 というわけで、ますます断片的な形で恐縮ですが、すくなくとも『金剛型戦艦』の髙木さんの記事の訂正箇所は以下に略述しておきたいと思います。詳しくは『金剛型戦艦』や髙木さんのサイトをご参照下さい。

 で、壇上に登場した髙木さん、まずは自著の宣伝。

『日本軍艦写真集』(光人社)

 これは髙木さんの長年のコレクションを本にしたものですね。小生も見たことがありますが、大変綺麗で見応えも資料性もある写真集です。買ったわけじゃないけど・・・

 で、これはいいんですが、もう一冊の宣伝はなぜか軍艦ではなくて鉄道の本。

『幻の国鉄車両』(JTB)

 題名だけ見ると、最近はやりの国鉄懐古で、団塊の世代当たりのノスタルジーに便乗した本みたいですが、著者の面々、石井幸孝・岡田誠一・小野田滋・齋藤晃・沢柳健一・杉田肇・髙木宏之・寺田貞夫・福原俊一・星晃というお名前を見れば、安心してお薦めできる本といえそうです。済みません、そんな本が出たことをこの日まで知りませんでしたが・・・

 そして、もう一冊は壇上で宣伝したのではなく、確か打ち上げの時に伺ったのだと思いますが、鉄道雑誌『Rail Magazine』の300号記念号に、髙木さんが十年ばかり前に書いた記事の増補改訂版「改稿 国鉄蒸気機関車発達史」が載っているそうで、正直RM誌があまり好きではない小生ですが、リアル工房の時分に髙木さんの前稿で日本の蒸気機関車の歴史を理解した(それまでにも断片的な情報やトピック的な通史は読んだことがあったが、髙木さんの記事は practice(手法体系)という概念を持ち込むことで、明快な筋を通した通史を示していた)身としては、買わずばなりますまい。資金の都合でまだ買ってませんが・・・

 話が逸れまくりましたが、本業鉄道趣味者としては、髙木さん=蒸機の人なので、ご勘弁下さい。
 『決定版 金剛型戦艦』の訂正補足としては、
・p.146:タイガーとリナウン級の図面が間違い。正しくは以下の通り(レジュメを取り込むのは控えていましたが、この場合は構わないだろうと考え以下に紹介します。クリックすると図は拡大表示します)。
講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・坤_f0030574_1933573.jpg
 正しくは翼軸が直結タービン中圧(I)、内軸が直結タービン高圧(H)・低圧(L)。
・p.152:タイガーの後部2砲塔は当初背負式の計画であったが、Y砲塔直後に後部魚雷発射管室を設けたことにより、弾薬庫が前に寄り推進軸と干渉するため、第3砲塔を機械室の前に移した。
・p.153:リナウン級の缶圧はタイガーではなく金剛と同一。
・p.156:出力が同じ時は、速力の3乗が排水量の2/3乗に反比例。榛名の第2次改装時期は1933年8月~翌年9月。
 また、練習戦艦化された比叡は、ロンドン条約の制限に従って最大速力18ノット、出力1万3800軸馬力と公表されていたが、実際は缶の性能から3万9700軸馬力程度と推算される。練習戦艦時代の基準排水量は1万9500トンだが、長さと幅の比が近似している英巡戦インディファティガブル排水量1万8750トン、4万3000軸馬力で25.79ノット出していることから、その速力は24.5~25.0ノットと推算される。
・p.157:タービンと減速装置の重量は、1軸当たりではなく4軸合計で439トン。
・p.158:第2次改装後の金剛の過負荷全力(10.5/10)公試の結果は、排水量3万6860トンの時、14万3691軸馬力で30.48ノット。また不明だった第2次改装後の金剛のタービン初圧は、17kg/cm2 と判明。

 盛りだくさんなトピック中から、メモが残っていたものを一つご紹介。それは、「なぜ日本海軍はイギリスに戦艦ではなく装甲巡洋艦(巡洋戦艦)を発注したのか?」という点です。
 黒板に表を書かれて説明されたのですが、かいつまんで言えば、砲の製造技術の導入という点では戦艦でも装甲巡(巡戦)でも同じ、装甲については戦艦の方がより技術を得られるが、機関については戦艦:4万馬力vs.巡戦:7万馬力で巡戦に分があり、お値段は巡戦が安い、ということで、トータルで巡戦が選ばれたのだろう、とのご指摘でした。

 随分時間も押して、髙木さんの講演はまだいろいろ話題を積み残したまま終わらざるを得ませんでした。今回最大の反省点です。

 そして全体の質疑応答に移る前に、平賀文書の整理とデータベース化、そして「平賀譲デジタルアーカイブ」開設の中心となった、そして平賀文書を駆使して『近代日本の軍産学複合体 海軍・重工業界・大学(創文社)をまとめられた畑野勇先生が急遽登壇され、告知をされました。
 それは、呉市海事博物館、といってもピンと来ない方が多いかも知れませんが(笑)、大和ミュージアムの第2回特別展として、「軍艦設計の天才 平賀譲 ―戦艦大和への道をひらいた東大総長―」という展示を来月から明年2月まで行うということ、そしてそれに合わせて、来月19日に『平賀譲 名軍艦デザイナーの足跡をたどるという図録が文春から出るというお話でした。
 畑野先生は図録のゲラまで見本にご持参下さり、来場者に閲覧の機会を下さいました。まこと、感謝の念に堪えません。

 そして質疑応答の時間になります。個別の質疑をはしょらざるを得なかった大塚・髙木講演を中心に、広く質問を募ります。以下に概要を(メモし損ねた質問があり、すべてではありません)。

・大塚氏へ、金剛建造時に主砲用の水圧機が3機しかなかったのはなぜか。斉発する気がなかったのか、予算上の問題か。
→当時はあまり斉発を考えなかった。ライオンも最初は水圧機が少なく、その後改装して積み増した。費用の問題もあった。結局、水圧はやめて空気圧にした。

・大塚氏へ、改装して空気圧にしたというが、ドイツ艦は昔から空気圧を使っていた。その影響はあるのか。
→直接の資料はないが、ドイツの資料が1920年代に入って日本で研究されていることは確か。影響は考えられるが、状況証拠しかない。

・大塚氏へ、金剛級により、それまでより排水量が50%も増えた艦を日本で作ることになったわけだが、それによる問題はなかったのか。
→船体も機関も大幅増強なので、まずヴィッカーズに注文した。主要部品をみな買ってきて、最初に日本で作った比叡は、4隻中最も調子が悪く、艦隊での評判も悪かった。そこで民間造船所(技術が不安)で作る榛名と霧島は、設計を変更して作りやすくした。この2隻は評判が良く、海軍の資料でも「金剛級の榛名型 / 霧島型」という言い方がされることもある。

・小高氏へ、金剛代艦の艦政本部案は主砲の前に副砲塔があり、主砲との間にブラストスクリーンのようなものが描かれている。この辺りはどうなっているのか。副砲は後ろが開放されているのか、ちゃんとした砲塔なのか。
→副砲は、後部も閉鎖したちゃんとした砲塔と考えられる。
(大塚氏より補足)→砲塔の上の装甲は薄いので、実際に作ったら砲塔内の衝撃が激しいと思われる。最上級でそのような例があった。

 と、一通り質問が出たところで、質問ではないのだが一言、と登壇されたのが、軍艦関係の著作も多い斯界のベテラン・阿部安雄さんでした。阿部さんはこの機会に是非、と思いがけない秘話を語られます。

 先程も話題に出た大和ミュージアムには、金剛が建造当時に積んでいたボイラーが展示されています(英国製のヤーロー缶)。これは第1次改装の際に降ろされ、その後重油専燃に改造されて陸上で海軍の技術研究所の暖房用ボイラーとして使われていました。戦後になっても、やはり金属技術研究所や防衛庁施設の暖房に使われ続けました。しかし研究所を移転することになり、目黒区が跡地を公園にするというので、このボイラーも撤去することになりました。
 さてその頃、大和ミュージアムの開設作業が行われていました。その際、「旧海軍関係のものなら何でも集めよう」派と、「呉の施設なんだから呉関係のものだけでいいよ」派との間で、時として意見対立があったそうです。今では大和ミュージアムが好調なもので予算も付き、「何でも集めよう」ということになっているそうですが。そして設立委員の一人であった阿部さんは、貴重な旧海軍の遺産であるこのボイラーを、何とか集めたいと考えておられました。
 そんなある日、朝日新聞の記者がボイラーのことを聞きつけて、取材したいと申し入れてきました。そこで造機屋の阿部さんが、記者についてボイラーを見に行くことになりました。見に行ったところ、改造されていてもこれは金剛建造時のボイラーということはすぐ分かったそうです。金剛のボイラーは2度積み替えられていますが、第2次改造で積まれたものは台湾海峡の海底に眠っているわけですから、区別自体はそれほど難しい話ではないでしょう。
 しかし、阿部さんはここで考えます。建造時のボイラーということはイギリス製で呉とは直接関係ない。とすると、保存の予算が付かないかも知れない。第1次改装後に積まれたボイラーとなれば、呉製だからこれは予算が付くだろう。そこで阿部さんは、新聞記事に「ボイラーの製造時期は不明」と書くよう、新聞記者に頼み込んだそうです。そして記者もそれを受け入れ、朝日新聞にこのボイラーのことが結構な紙面を割いて紹介されたそうですが、そこでは「製造時期不明」と書かれたのだとか。
 かくして、このボイラーはめでたく大和ミュージアムに保存展示されることになりました。もちろん展示の際は、ちゃんと「このボイラーは調査の結果、金剛建造時のものと分かりました」と解説を付けました。
 ところが阿部さん曰く、いくつかの書物で朝日新聞の記事を元に、「大和ミュージアムの金剛のボイラーは製造時期不明」と書いているものがあるそうです。そこで、この機会に本当のいきさつを話し、製造時期不明という間違いを訂正しておきたい、とのことでした。

 この秘話に、会場が大いに感動して、阿部さんに盛大な拍手を送ったことは言うまでもありません。そして、確かこの講演会の案内にも使った金剛の絵を描いて下さった fismajar さんだったと思うのですが、阿部さんにこの話はオフレコなのか公にして良いのかと質問されたところ、間違いを正すために広めて良いという趣旨のお答えだったと思いますので、ここに特に書いた次第です。
 こうして、最後の最後に、まさに運営側もサプライズなイベントが起こり、講演会は終了しました。
 
 運営の一端に関わった者として、このイベントはお陰様で成功裏に終わり、意義も大きかったと思います。
 小生が平賀文書アーカイブの構想や、畑野先生のご研究について知ったのは2年半前の学会がきっかけでしたが、その後アーカイブが一般公開され、駒場キャンパスで「平賀譲とその時代展」と講演会が開かれるなど、その成果が次第に広く知られるようになってきました。そして、今回の講演会がそもそも実現したのも、「平賀譲とその時代展」講演会場で偶然再会したことで、しばらく縁が切れていたじゃむ猫さん髙木さん「三脚檣」の方々との交流が復活したということが伏線にありました。
 いわば、学問的研究の成果が在野の研究者、趣味者、マニアの人々を刺激し、このようなイベントが実現したわけです。そして、在野でも面白い情報や理論を抱えている人々が、今度はその成果を学問的な貢献につなげることも出来るかも知れない、そういう循環が出来れば大変有意義であろうと思います。
 ちなみに東大には、日本史上最大の新聞雑誌マニアが蒐集した、新聞や雑誌のコレクションを、法学部の教授が認めて大学に所蔵したという話が実際にあります。そう、宮武外骨と吉野作造、そして明治新聞雑誌文庫ですね。

 最後の講演をされた髙木さんは、鉄道に関する自著を紹介する時に、「船も鉄道も好きな人を"両棲類"といいますが、自分もその一人で、今日は"両棲類"の大御所である青木栄一先生もお見えで・・・」と言っておられたかと思いますが、この趣味者の研究の厚みが学問的なそれに劣らない場合もある、ということを鉄道史の分野で以前から指摘されていたのが青木先生だったわけで、このことは当ブログでも以前書いたことがありました。で、鉄道がそうなら軍艦だって、と小生は思うわけです。
 今回の講演会が、そういった趣味と研究の循環のサイクルを作る一つのきっかけになれるかは分かりませんが、平賀文書のような膨大な資料群が公開され、多くの人が様々な形でそれにアプローチし、その成果を交換し合うという場が成立すれば、それは社会全般の教養の向上に繋がるのではないか、という希望は持っています。つまり、空幕長が史資料の読み方を全く知らずに「論文」を書いて、国民に国防の危機を憂慮させる、そんな事態が減るんじゃないかとは、期待しているわけで。
 今回は、畑野先生はじめ、他にも平賀文書整理に関係された先生方がお見えになりました。そもそも部屋を取る手続きを取って下さったのは、鈴木淳准教授です。ご協力下さった先生方に心より感謝すると共に、秘話を話して下さった阿部さんはじめ、"両棲類"大御所・青木先生、そして出版社やライターの方々も結構来ていたということで、聴衆の水準も高かった?こともまことに嬉しいことでした。
 実際、今回のイベントが良かったと小生が感じたのは、この手のイベントをすると必ず、質問タイムであんまり講演と関係ない自分語りを滔々と始めるお爺さんとかが現れるものなのですが(苦笑)、そういう「質問に見せかけた自分語り」な人が全くといっていいほどおらず、講演と質問とがよく噛み合っていたのは、良いことであったと感じました。

 とまあ、こんな話をはしょって、散会挨拶として壇上で小生がさせていただきました。せっかくの講演会の印象をぶちこわさなければ良かったと今にして思う次第です。いや、じゃむ猫さんの陰謀でなぜかそんなことになって。
 なお、じゃむ猫さんのブログに、この講演会の際に配布したアンケートの集計結果が載っていますので、ご興味のある方はご参照ください。50~60人程度の来場者で27通というアンケート回収率は、かなり高い方だと思います。

 以上、結局長くなったレポートですが、最後に改めて、講演者の皆さん、運営に携わった皆さん(印刷失敗して済みません)、ご協力下さった鈴木先生、そして聴衆の皆様に、心より御礼申し上げる次第です。

 え、次回の予定?

※2008.11.30.追記:書き間違いや舌足らずな箇所を修正しています。
Commented at 2008-11-30 09:37 x
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by bokukoui | 2008-11-28 22:47 | 歴史雑談 | Comments(1)