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当てもなく教育について語ろうとする・続き「委員長って言うな!」

 教育について研究せんと『せんせいのお時間』の続きを古本屋で購入したものの、みか先生の年齢ネタが心に突き刺さる。ああ、楽しく笑う漫画のはずが、なんで視界が曇るのでしょう・・・

 ・・・これはもちろん冗談で、教育について考える参考になった本は近頃話題の(一部で)『ニートって言うな!』です。
 自らの不安や不満を若年層に向け、教育によって彼らを是正すべきであると考えてしまいがちな思考パターンの存在を指摘した点は、「教育」というものの持たざるを得ない欠点というか、限界というか、そういったものを考える上で大いに参考になりそうです。あと小生自身も親から折々ニートと罵倒されておりますので、その点でも大いに有用な書物といえそうです。小生はただのグウタラであって、ニートではありません・・・って、それは完全に自己責任ですな。しまった、自爆しちまった。

 茶々はさておき、「教育」で社会問題(に見せかけた自己の不満や不安)でを解決してしまおうという手法には、教育の持つ限界点からくる問題があろうかと小生は考えます。それは他者を自己の思い通りにする、そしてそれは他者にとって良いことに違いないと「教育」を施す側も思ってしまう、ということです。先日話題にした見事な嘘ニュースに登場した某学園なんかの建学理念なぞにも読み取ることができるように思います。
 そして、前掲書(本来はもっとしっかり書評するべき本なのですが)で批判されているニートをめぐる言説に典型的に現われるような、社会の「病」と見做されたものの「治療」として教育を使い、結局は自己の不快なものを矯正・芟除しようとする精神が、政治と結合してその姿を現在もっとも可視的にしているのが、教育基本法の「改正」なのだろうと思います。

 このことを論じるには小生はあまりに力不足ですので、この問題を追いかけておられる多くの方の中から、こちらをご紹介させていただくにとりあえずはとどめます。

 で、小生はフマジメ韜晦路線に走ることとします。
 最近ヲタクが悪い意味で「右傾化」というか保守化(宮台真司の言葉を借りればヘタレ保守)してるんじゃないかと思うことが間々あって哀しいのですが、斯様な連中に一言。
「お前ら、教育基本法を改正すべきだというなら、二度と『委員長萌え~!』とか言うな! 級長といえ、級長と!!」

 どうでもいいけど、アニメとか漫画とかで「委員長」が「級長」に取って代わったのはいつ頃なんでしょうね。最近読んだのでは、設定は現在であるらしいにもかかわらず、橘真児氏の作品にあったような覚えが。橘氏の作品は畏友たんび氏がかねがね賞賛していましたが(もっとも、小生がたまたま読んだその本は「ハズレ」だったのですが)、学校を舞台に少年少女の性を巧みに描く元教師の官能小説家・橘氏がわざわざ「級長」という言い回しを使ったのには、何か意味があるのでしょうかね。

 ふざけ過ぎたので、教育関連の話題はもうちょっと真面目に続けます。

by bokukoui | 2006-04-20 23:56 | 思い付き | Comments(5)

小休止

 「続きは明日」と昨日書いておいて申し訳ありませんが、今日はちと不調につき、申し訳ありませんがもう一日ご猶予を。

by bokukoui | 2006-04-19 23:56 | 身辺些事 | Comments(0)

今日も思いつくまま・当てもなく教育について語ろうとする

 以前に村上ファンドが阪神株を手放すという情報で下らぬ憶測記事を書きましたが、結局は阪急が引き取るという話がここ数日出ています。阪急単独で全部引き取れるのか疑問の余地は大きいですが、どの私鉄が引き取るかという点では妥当な話でしょう。やはり岩下清周は正しかった?

 それはともかく、少し前に教育について何か書こうとして挫折しましたが、もしかするとそこで語りたかったことに繋がるかもしれないコラムを日経新聞本日の夕刊に発見。それは金田一秀穂氏の「にほんごチェック」という記事です。表題は「『〇〇力』安直な造語飛び交う」。ちょっと引用してみましょう。
 「力(りょく)」は今一番はやっている造語成分といってよさそうだが、なんでもかんでも、力をつければいいというものではなかろうとおもう。
 少し前に、老人力ということばを赤瀬川原平氏が発明した。老人特有のゆっくりさ加減、力の抜け具合を表したことばで、マイナスの力のようなものであった。そこでの力というのは、決して強いものではなく、それをあえて「力」と言い当てたところに、センスのよさがうかがえた。しかし、昨今の「力」には、その洗練が見られない。
 なるほど、言われてみれば最初は赤瀬川原平氏だったかも。「力」とは通常決して見做されないものを敢えて「力」と呼ぶところにセンスがあると金田一氏は指摘し、しかし最近のにはそれが欠けていると批判、「(最近の「力」は)何らかの積極的な価値のことであり、力さえあればいいだろうという安直な思想が見え隠れする」とまとめています。
 この手の安直な「力」の最高峰に「人間力」が位置します(アマゾンのカテゴリ「和書」で「人間力」と入れて検索し、発売年月日順に並べてみるとなかなか楽しいです。どうも教育現場で生み出されたらしい言葉が、加藤諦三センセイや船井幸雄大センセイあたりによってビジネス界に導入され、ゴキブリのように繁殖していく過程を見て取ることができます)が、ともあれ、この手の安易な「力」使いを流行らせたのは、まず間違いなく齋藤孝でしょう。
 アマゾンで彼が本のタイトルに使っている「〇〇力」という言葉を調べると、「作文力」「質問力」「国語力」「少年力」「日本語力」「コメント力」「潜在力」「集中力」「眼力」「英語力」「段取り力」「読書力」・・・他に「~チカラ」なんてのも幾つかありましたが、これだけ書いていればこいつが安易な「力」をはやらせた張本人である可能性はかなり高いでしょうな。齋藤の著作に「体育会系的な明朗さと健康至上主義」を日本文学の研究者・坪井秀人氏が指摘したと、香山リカの本に書いてあったけど、齋藤の言説の背後にあるのが「力さえあればいいだろうという安直な思想」であることは、かなり確かなのではないかと思います。
 さて、話はここから本題に入りますが、今日はこれ以上考えていないので続きは明日。

by bokukoui | 2006-04-18 23:59 | 時事漫言 | Comments(9)

「超」というのは若者言葉か

 日経新聞で読んだのですが(ネット上では現在のところ探したけれど見当たらない)、奥多摩の道路の急カーブで死亡事故があり、注意を喚起するために、路面の標示を「急カーブ」よりもパワーアップして「超急カーブ」としたそうです。
 そのこと自体は、急カーブの安全対策として、効果がどれほどあるかは未知数ですが、とりあえずやってみるくらいはいいでしょう。
 ところが日経の記者氏、このことについて若者言葉を取り入れて若年層にアピール、みたいな感じで書いています。おまけに「若者言葉に詳しい」大学教授のコメントまで集め、行政の言葉遣いが変わるきっかけになるかも、などとコメントさせています。

 しかし。
 「特急燕」が走り始めたのは1930(昭和5)年だったような。その後私鉄でも「超特急」は結構流行ります。
 それはともかくとしても、「超」を何かに冠する初出っていつごろなんでしょうね。今度『日本国語大辞典』でも引いて調べてみましょう。若者言葉とかいう奴は、或いはファッションなんかもそういう場合があるような気もしますが、実は昔のリバイバルだったりすることもままあるものです。
 「超」を若者言葉らしくするなら、「チョー」にした方がより適切な気もします。

 なんて「若者言葉」にいちゃもん言いだすようでは、もう若くはない・・・というか、言葉に関してはリアル厨房の頃から若年寄気取りだったような。

※この話題の続きはこちら

by bokukoui | 2006-04-17 23:58 | 思い付き | Comments(2)

拳銃と日本刀~『BLACK LAGOON』を読んでふと思う

 時には「オタク」に因縁つけるばかりでなく、その筋にどっぷりはまった話題を提供してみようかと。

 最近は5巻が出て(リンク先のレヴューでネタバレ書いてる者あり)、この四月からアニメ化もされた広江礼威『BLACK LAGOON』という漫画があります。ご存知の方も少なくないと思いますが、ガンアクションのかっこよさで多くの人を惹きつけている注目の作品です。この作品も、昨日の話題を引っ張るようですが、全体のストーリーよりは(主人公?ロックの成長は一応あると思うが)一齣一齣のアクションや台詞回しを鑑賞する作品なのかなと思います。
 こういった類の作品をものされる多くの執筆者の方の例に漏れず、広江礼威氏もまた銃砲には多大な知識とこだわりをお持ちのようです。実際、5巻の巻末にはこの作品で登場した銃の紹介が巻末付録として掲載されています。

 先程小生は「一齣一齣のアクションや台詞回しを鑑賞する作品」と本作を評しましたが、このような見方をすると、本作4巻~5巻の日本篇は、なんと言っても日本刀を織り込んだアクションを描くために物語が作られたのだ、そのように思われてきます。そして、日本刀で拳銃の弾を止めてしまうなど、随所に日本刀を駆使した見せ場があり、この2冊の読みどころの一つであろうと思います。
 さて、その日本刀を振り回すキャラクター・銀次に対し、若頭の坂東は次のような台詞を言います(4巻p.66 原文傍点は太字で強調)。
――己に、もう一度、白鞘を持ってほしいンや。
 つまり、この2冊のストーリー中で銀次が使っている日本刀は「白鞘」なんだそうです。

 ここで書架から名和弓雄『間違いだらけの時代劇』を引っ張り出してみると、こんなことが書いてあります。(pp.110-111)
 白鞘は刀の寝間着
 時代物の首斬り場面や、現代物のなぐり込みの場面に、よく白鞘の刀が登場する。だれが流行させたかは知らないが、これまた、間違いである。
 生き物はもちろん、巻藁でも、青竹でも、白鞘の柄のまま斬りつければどうなるか? 柄木(つかぎ)は二つに割れて、はみ出した中心(なかご)で手のひらに打撲傷を受けてしまう。白鞘の柄のまま使用するときは、割れないように、籐蔓を巻いて補強しておかなければならない。白鞘というのは“休め鞘”とよばれ、刀身がいたまないように保管するときに使われたもの。
 白鞘の鞘や柄は内部がよごれた場合、二つに割って、掃除をし、あとは米粒を練ったのりで貼るから、もともと割れやすいようになっているのだ。
 なにしろ、柄には、目釘穴の開けてないものさえある。これは大名の家などから出てくるが、これを見ても白鞘が休め鞘であることが証明されるはず。しかし、これとて、ものを知らない人たちによって、「あ、未完成品で、まだ目釘穴が開けてない」と、錐でごりごり穴を開けられてしまう。
 というわけで、白鞘は本来刀の収納ケースであって、実戦に使うものではありません。何でも刀が錆びてしまうと、鞘の内側にも錆が移るので、刀の錆を取っても同じ鞘に入れたらまた錆がついてしまうそうです。そこで白鞘なら二つに割って鞘も綺麗にクリーニングできる、というわけ。また、漆塗りの普通の鞘よりも、白鞘に刀を納めた方が木の通気性のお蔭で傷みにくいんだとか。
 ガンマニアの描いた漫画の刀剣描写にいちゃもんをつける、というのはちと外道な気もしますが、まあこれも間接アプローチという奴ですよ? 結局因縁付けみたいな内容は同じだけど。

 ちなみに、これは全く小生個人の勝手な推測ですが、白鞘の刀がやくざ映画なんかでよく出てきているのは、仕込杖と混同したのではないかと思われます。やくざ映画の時代は廃刀令以後(当たり前だ)なので、実際やくざが仕込杖を使った場合は多かったのかもしれませんが、そのイメージが段々混同されていったのかなあとも思います。
 刀の鍔は手元を守る意味もありますが、何より刀の重量バランスを保つのに重要だそうで、鍔をつけた普通の刀の方が仕込杖よりも扱いやすそうなんですが。

 今日は所用で出かけて帰宅が遅くなりそうなので、早まわしにこれで更新。

by bokukoui | 2006-04-16 03:48 | 漫画 | Comments(0)

今後のMaIDERiA出版局の活動予定

 考えてみれば、昨日あんなことを珍しく書いたものの、当ブログ本来の目的であるMaIDERiA出版局の活動報告的な記事を碌に書いていないので、この機会に一筆。

 来る5月3日の即売会「帝国メイド倶楽部」にMaIDERiAは参加します(コミケ以外の即売会への参加時の名義は「MaIDERiA」)。新刊予定は、えー、・・・渡辺プロデューサーが何か企画を考えておられる由、小生もそれに寄稿するような形になる、かも知れません。
 サイト更新に関しては、「げんいけん」こと現代文化遺跡研究会の第2回を間もなく掲載予定です。仕込みは大体済みました。
 そして、一年間放ったらかしの「読書妄想録」も、流石に一年以上の放置はまずいので、何とか短いものでも書くようにしたいと思います。候補の本がないのではありません。むしろ多すぎて困っているのです。そして書きたいと思うことも増えていくと、いつまでたっても踏ん切りがつかない状況になってしまうんですね。でも、書かれなかったどんなに素晴らしい原稿も、書かれたどんなに下らない原稿より、優れているということはありません。

 実はですね、MaIDERiA出版局サイトは、今月に入ってからアクセス数の減少が明確で、先月末に一応更新したにも関らず、少しも効果が見られなかったのですが、アクセス解析をするにMaIDERiA出版局サイトにお越しの方の多くはMaIDERiAから来ている方が多く、そのMaIDERiAの更新情報が更新されていなかったため、サイトの更新の告知に問題があったということが発覚しました。今後はプロデューサーと連絡を密にし、かかる事態の再発を防ぐ所存であります。

by bokukoui | 2006-04-15 23:58 | 制服・メイド | Comments(0)

『エマ』が最終回を迎えたそうで

 昨日のように、人様の記事を引用して紹介するような記事だと書くのが楽だなあ。

 というわけで今日も手抜きをしてやろうというわけですが、今日のお題はこちらの読売新聞のブログ(執筆者はオタク方面に詳しい方として著名だそうです)です。これを読んで、初めて森薫『エマ』が完結したことを知りました。7巻はいつ出るのかと思っていましたが、完結を待って出すのでしょうね。
 それはともかく、該当記事に関して、以下の部分はなかなか興味深くもあるのでちと引用して検討してみましょう。
 「エマ」を読んで痛感するのは、当たり前のことではあるのですが、メイドという存在はヴィクトリア朝にあってこそ、その真価を発揮するということです。一昨年の「電車男」のヒット辺りから「メイド喫茶」のブームが起こって、店舗も秋葉原を中心に林立。一時期はテレビで毎日のようにメイド服を着た女の子が「お帰りなさいませ、ご主人様~」などと言っている姿が見られたものですが、個人的には正直言ってちょっと辟易してました。メイドがご主人様と一緒に遊びますか? ネコ耳つけますか? 「萌え~」なんて言いますか? それじゃ単なるコスプレ喫茶と何も変わらないじゃないですかッ!

 もちろん、そういうお店の楽しさを否定するつもりは毛頭ありません。しかしながら、客が「ご主人様」を演じ、店員は「メイド」を演じるという密やかで一時的な共犯関係と、そこから生じる穏やかで厳かな時間と空間こそが、メイド喫茶の本来的な魅力だと思うのです。エマの清楚さ、素直さ、かわいらしさに思いをはせつつ、ヴィクトリア朝時代の雰囲気を疑似体験したい――。私が求めるのは、そんなメイド喫茶です。
 なるほど。なかなか熱の籠った記事ですし、また『エマ』の読者層の少なからぬ部分からは支持されそうな意見と思われます。
 小生も同意する点がないわけではありませんが、しかしここはこの記事の作者が新聞記者であるということに鑑み、些か慎重にこの記事を検討してみようと思います。

 確かに最近は「メイド」を冠した新商売が矢鱈と増え、風俗に限りなく近いようなものも少なくなく、それに対し批判的な意見も現われています。「メイド喫茶」のバブル状況以前から追っかけていたような方々には、そのような意見をウェブ上で明言されておられる場合がままあるように思われます。小生も一応その系譜に連なる、のでしょうか。
 実は先日、池袋の「メイド喫茶」Wonder Parlour を覗いて来たりもしたのですが、このお店はそのコンセプト自体が上記のような「メイド」商売バブルへのアンチテーゼであるようで、ヴィクトリア朝時代へのこだわりを打ち出しており、おそらく上記引用の記事を書かれた記者氏の考えと共通する点は多いように察せられます。
 というわけで、原点回帰というか、ヴィクトリア朝的なメイドさんらしさを大切に! というメイド趣味の一セクトが存在することは確かだといっていいでしょう。

 しかし、そこでどうにも気になって仕方がないのが、この記者氏の言う「ヴィクトリア朝時代の雰囲気」とは何ぞや? ということです。この記事からでは、それが何であるかは読み取れません。一方でメイドが持つ、ヴィクトリア時代にあってこそ発揮するという「真価」であるとか、或いは「メイド喫茶の本来的な魅力」というものが、果たしてヴィクトリア時代の社会や文化と如何なる関連性を持つというのでしょうか。そのことを記者氏はお考えになったことがあるのでしょうか。
 『エマ』に描かれるヴィクトリア時代は、かなり限られた一面を、しかし見事に切り取って、著者が愛情と情熱を注ぎ込んで作り上げた、やはり一つのファンタジー世界です。ヴィクトリア時代を語るのに、『エマ』の世界観のみで語るのはあまりにも偏頗で(しかし作品としての面白さはむしろその偏頗さから生まれており、その徹底した偏頗ぶりそのものが「ヴィクトリア朝的」ともある意味評価しうると小生は思います)、それを「ヴィクトリア朝の雰囲気」といわれても、それは勝手な思い込みでしょう、としか言いようがありません。
 そう、ヴィクトリア朝時代の物を例に出せば、この記者氏の思う「メイド喫茶」に一番近いのは、19世紀の万博での(19世紀後半は著名な万博がいくつも開かれました)日本の展示ではないかと。当時の日本に国際的に展示するものなんて大してないので、芸妓が接待サーヴィスをさせたところ、えらく好評だったといいますが、一方で「日本=ゲイシャ」という偏頗なイメージを欧米に広める結果にもなったのでした。
 ちと(かなり?)意地の悪い突っ込みですけど、マスコミの方でしたらその辺の言葉遣いには慎重になっていただきたいと思います。

 ともあれ『エマ』完結との由、森先生お疲れ様でした。7巻が出たら、早速「墨耽キ譚」にて取り上げようと思います。
 しかし、『エマ』に完結されてしまっては、「墨耽キ譚」のその後のネタがなくなってしまいそうですね。殊に小生は最近漫画を読んでいないので(元々そんなに読んでいませんが)、新しい題材が見つかるかどうか。
 そんな中で、珍しく最近買って読んだのは、ぼちぼち集めている駕籠真太郎先生の著作で、今まで持っていなかった『パラノイアストリート』の1巻と2巻でした。1巻は頗る面白かったのですが、2巻はやや迷走気味か? とはいえまだ一度しか読んでいないので、軽々に評価は下せません。駕籠作品は一齣一齣舐めるように読んで堪能するものですから。そうそう、『六識転想アタラクシア』を読んだ直後に『ローゼンメイデン』の漫画を読んだので、精神世界というか、抽象的な「心の中の世界」を描く想像力の点で、PEACH-PITは駕籠真太郎先生の足元にも及ばないと思い、『ローゼンメイデン』を読む気がしなくなったんですよね。
 考えてみれば、小生の好きな漫画は、『さよなら絶望先生』とか『ディスコミュニケーション』(注:『夢使い』は読んでいません)とか、一齣一齣堪能する読み方に向いたものが結構多いようで、そういう点では森薫先生の作品も共通性があるのかもしれません。

 ついでに。
 駕籠真太郎『駅前浪漫奇行』に収められている「駅前英国」という作品は、森先生と180°反対に偏って英国を切り取ったブラックユーモアな漫画です。「娼婦切り裂き体験コース(ナイフ貸し出し可)」・・・これで笑った方はお読みになられてもいいかもしれません。万人には勧めません。

by bokukoui | 2006-04-14 23:52 | 制服・メイド | Comments(0)

いろいろと

 考えるべきことはありますが、バイトの塾講師という仕事で精神的にえらくくたびれたので、本日は一休み。
 ただね。
 一応教育に関連する産業の末席に連なっているものとしては、昨今の情勢について何事か考えをまとめる価値がありはしないかと思いもしたのですが、余計に気分が沈むばかり。

 なにか楽しいニュースはないかと思ったら、ミクシーのニュースでこんなんがありました。
 米紙ニューヨーク・ポスト(電子版)は12日、「ドラキュラの城」として知られるルーマニアのトランシルバニア地方にある観光名所、ブラン城が同国政府から旧王族の末裔(まつえい)に当たるニューヨーク州ノースセーラム在住の男性に返還されることになったと報じた。

 この男性は工業デザイナーのドミニク・フォン・ハプスブルク氏(69)で、2000年にルーマニア政府に返還を要求。同国政府は昨年、共産政権時代に没収した個人資産の返還計画の一環として、ブラン城を返すことを決めた。1カ月以内にも引き渡される見通し。

 ハプスブルク氏は「ドラキュラはルーマニアを1度も訪れたことのない英国人(英統治下のアイルランド人作家ブラム・ストーカー)による創作。わたしはドラキュラとは関係ないし、夜中に飛び回ることもないよ」と話している。 

[時事通信社]
 ドラキュラなんかどうでもいいし、ルーマニア政府の政策について云々する知識も小生にはありません。ただ、トランシルヴァニアの城の所有権が、かのハプスブルクに連なる方(ですよね、どう考えても。ニュースの本文がそれに突っ込まないのは寂しすぎる)にあるということに感動した次第です。
 もっとも、ドラキュラのそもそものモデルってワラキア公で、ワラキアはルーマニア独立までオスマン帝国の支配下だったような。まあ、小説『ドラキュラ』はまた別なんでしょうな。そこら辺のいい加減さが、19世紀英国らしいといえばそんな気もします。小説『ドラキュラ』を、文明の中心たる英国と、周縁の地であるルーマニアの対比で読み解く話を、確か高山宏氏の著作かどこかで読んだ覚えがあるけど、さてどの本だったっけ。

 以上の本文に何の関連もなくて恐縮なのですが、酒井シズエ翁のサイトが微妙に更新されております。BBSの早期移転実現が望まれますが、今年は翁も更新のご意欲がおありのようで慶賀の至りです。

by bokukoui | 2006-04-13 23:59 | 歴史雑談 | Comments(0)

極私的オタク論その5・「オタク」とナショナリズム

 昨日書いた企画の本編です。やはり今までの幾つかの話と同様、鉄道あたりの話と絡めることになるので、同工異曲な芸のなさとも言えますが・・・。

 昨日にあんなことを書いたので、『オタクエリート』を読み返しています。
 この雑誌では、「オタク」について漫画・アニメ・ゲームに関連する分野を専らその対象として取り上げ(p.14など)、これらをコンテンツ産業として称揚しています。
 一方、野村総研の調査などを挙げて、「オタク産業」の盛んさを説いています(p.20~21)。その場合は上掲三分野に加えて様々な分野が加算され、鉄道なんかもそこに入っています。

 今までうだうだ書いてきたことと同じ問題意識なのですが、「オタク」の中に鉄道が含まれるか含まれないか、随分恣意的だなあとやはり思うわけです。この場合のように、「オタク」の数を多く見せたいような時は数に入れられ、一方でなにやら世界に売り出すCOOLな日本のOTAKU、では出てこないのでして。
 「オタク」をこういった文脈で恣意的に使いわけ、鉄道趣味者が算入されたり排除されたりするのは、ナショナリズム的な発想と関係があるような気がします。
 『オタクエリート』の表紙見返しには「海外では、【オタク】は最先端の日本文化・巨大産業の総体として、リスペクトされているのです」と書いてあります。しかし、そんなら自動車のマニアだっていいじゃないですか。日本車の海外での進出ぶりを見れば。鉄道趣味者だってもちろんいいでしょう。日本の新幹線や通勤電車に匹敵するようなものは世界中探してもそうそうありません。しかしここに、鉄道趣味者が「オタク」の定義づけで恣意的な扱いを受ける理由が存在します。鉄道趣味者は欧米にもゴマンといます。軍事趣味者も同断。他の趣味についてもいくらでも例が挙げられるでしょう。しかも彼らの活動を国際比較すれば、保存鉄道を運行するイギリスの鉄ちゃんや戦車を庭で乗り回すアメリカの軍事マニア比べ、土地の高い(それだけじゃないけど)日本は活動の面でちと見劣りするかもしれません。それでは「オタク」趣味でナショナリズムを満足させる効果は得られませんよね。でもそれでいいはずなんですけどね。趣味というのは民族を越える、それがいいんじゃないかと。

 話が先走りましたが、「オタク」の意味を作為的に狭く取ってみることで、「海外でリスペクトされている」というような文脈で「オタク」を語ることが可能になり、それはそのようなイメージを利用して自己の趣味を権威付けしたい、或いは「オタク」で儲けたい人たちにとって都合がいいわけです。こういったものは確かに海外にあまり例がないとされていますので、それが日本独自の誇るべき文化であるかのように認識され、そうするとそれまでその趣味に理解のなかった一般人も、何となくそれが立派なように思い込んでくれる可能性が増えるでしょう。
 しかし、海外での評判とされるものを鵜呑みにして自己評価にすりかえてしまうのは、問題があるのではないかと思います。ことに「オタク」という営為がそもそも、例えば音楽活動などと比して、社会一般へのアピールやパフォーマンスという性格が弱い類のものであったことを鑑みると。
 筆者が思うに、正直なところ、海外で日本のオタク文化へ向けられているまなざしも、敬意というより単なるイロモノであるとか、勘違いのような場合が極めて多い気がしてならないのです。なんとなれば、日本における「英国」+「メイド」の受容のされ方を見ていると、嫌でもそう思わずにはいられなくなるのです。言ってみれば、ひねくれたオリエンタリズムみたいなもんじゃないかと(サイードの本、何年積んであるんだっけ…)。 
 まあ要するに、「最先端の日本文化・巨大産業の総体」まで、「オタク」がしょいこむ意味はあるのでしょうか、ということです。このように自己中心的というか、夜郎自大的になってしまうことは、「オタク」趣味の発展にも良いことではないでしょう。
 
 こんなけしからんことをやってたからビブロスは潰れたんだ、などとこじつけるつもりはないですけれど、『オタクエリート』に喧嘩を売られたというべきササキバラ・ゴウ氏や大塚英志氏(『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』とか)の書いたものでも読んで、少し考え直して見るくらいは悪くないと思います(すみません読んでません。そのうち買って読みます)。とまれ、あまり「外国で評判なんだ!」と主張して自己の権威付けをするのは、かえってみっともない場合もあるように思われるのです。

 あんまりまとまってないなあ。もうちょっと整理して続けるかもしれません。

by bokukoui | 2006-04-12 23:59 | 思い付き | Comments(2)

ビブロス倒産記念にオタク論の続きをまたはじめてみる(序文のみ)

 先日ちょっと書いたビブロス倒産の件ですが、こちらの有名サイトの情報などによりますと、社長の兼営していた自費出版の会社が潰れて連鎖倒産という話だそうで、ある意味リスクの少なそうな(リスクを著者におっかぶせるから)自費出版商法もやはりダメな時はダメなんだなあという印象を抱きました。それにしても、こういっちゃなんですが、かの『リアル鬼ごっこ』のごとく、自費出版の本の大部分は自己満足以上の価値を有さないわけで(え? 商業もだって?)、そんな本の事業にカネ突っ込まれてビブロスが潰れたとなっては、やおい読みの皆さんにとっては腹に据えかねる事態でしょうね。腐女子の方々ならきっと思うことでしょう、そんなに本を出したいんなら同人で出せって。実際、同じ費用で部数・装丁ははるかに高水準にできるし、それに売れる部数はどうせ変わんない(笑)なら、読者の顔が見えるだけ楽しくていいでしょう。

 ところで、やおい方面の引き取り先はどうやら決まりつつあるらしいですが、『オタクエリート』に関しては「同誌は『利益を出すことができたようだ。第2号がまもなく発刊される直前の破産となった』(関係者)」という報道もありますが、にわかには信じがたいですね。こんな怪しからん雑誌を出したから潰れたんだ、などと詰まらないことを言うのは自粛しますが、これをきっかけに、先月はやらなかったオタク論をまたはじめてみようと思います。
 でも今日は所用があるので、本文は明日から(苦笑)

by bokukoui | 2006-04-11 23:58 | 思い付き | Comments(0)