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筆不精者の雑彙

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痒い

新学期開始以来けっこうせっせと活動していますが、それと関係あるのかどうなのか、体の柔らかい部分に発疹を見、よくもまあいろんな症状が出て来るなあと我ながら感心しております。まあ今までのそれに比べれば、何かする際の妨げとは比較的なりにくいのが不幸中の幸いですが。
# by bokukoui | 2008-04-13 23:09 | 身辺些事 | Comments(2)

三十三年の孤独~革非同花見に「希望は戦争」赤木智弘氏来駕

 日曜日のお花見の話など。
 これが革命的非モテ同盟古澤書記長主催のお花見なのでした。今回のお花見にはビッグな(?)ゲストが。
 『若者を見殺しにする国』「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」で話題を集めた赤木智弘氏であります。そして、漫画家・山本夜羽音先生も来られていました。

 週明けから急に天気が悪くなりましたが、日曜日は好天で花も充分残っており、絶好のお花見日和になりました。お花見の情景を記念に撮影したので以下に一枚。
三十三年の孤独~革非同花見に「希望は戦争」赤木智弘氏来駕_f0030574_225232.jpg
 上の写真で、顔が出ているのがおなじみ古澤書記長、赤で目伏せしたのが赤木氏、黄色が夜羽音先生です。十数名が集まり、フランス人や女性の参加者もあるなど、なかなか盛況でした。書記長もビールをサーバーごと持ち込む気合いの入れようでしたが、流石に多すぎて始末に困っていたようです。小生も未だ体調本復せぬ故に、始末に協力できなかったのは残念でなりませんでした。

 さて、赤木氏が来られるということを聞いたので、小生は『若者を見殺しにする国』を持参してサインしていただきました。またサイン本コレクションが増えました。
 が、それは本題ではなく、折角の機会なので同書の内容について幾つか感じた疑問点を伺ってみました。同書の核心をなすのは、雑誌『論座』に掲載された「『丸山眞男』をひっぱたきたい」という文章ですが、内容はリンク先にそのままあるので読んでいただければよいので、ご関心のある方はご参照ください。バブル崩壊後の不況で、特に厳しい経済的困難に追いやられた団塊ジュニア世代、氷河期世代の主張を訴えたものです。企業が氷河期世代の若者を切り捨てたばかりでなく、既存の「弱者」保護政策(労働組合とか)も既得権益を持った層を保護するばかりで、またそれを正当化するために「近頃の若者はダメだ」という「俗流若者論」(これについては後藤和智氏のサイトをご参照ください)が流布するのだとしています。そして、ここから氷河期世代の若者が脱却するには戦争が起こることで皆が貧しくなればよい、とさえ思いたくもなるのだ、としています。
 小生は最初、これはわざと過激なことを主張して社会批判を行う、例えばスウィフトの「アイルランドの(中略)穏健なる提案」みたいなのかと思ったのですが、本を読んでみるとどうもそういう積もりでもないような感もあり、とすると鋭い着眼点からはじまっているのに、そして部分部分ではなるほどと思ったところがあるのに、議論が途中からやや迷走しているような印象を受けました。

 幾つか感じた疑問点の中で最大のものは、この本の中で赤木氏が既得権益を固守して若者を犠牲に追いやっているという層に対して厳しく批判を述べる一方、ご自身をはじめとする、肝腎の団塊ジュニアの就職氷河期世代についての記述が少ないということです。何より、赤木氏ご自身が「この本は、社会批判の書であると同時に、私の人生を世間にさらけ出す暴露本という側面を持っています(p.15)」と述べられているのに、実はほとんどそうではないのです。赤木氏自身の経験による氷河期世代の状況がほとんど述べられていないため、その人々の苦境を訴える力を損なってしまっているように思われます。その分、既得権益と非難される正社員などへの批難、「希望は戦争」という過激な言辞ばかりが目に付いてしまうのです。
 これは結局、赤木氏のような立場にある人への支援をするという方向へ世を動かす、という戦略的効果を損なうことになります。あんまり他人事でもないので、そういった戦略的方向自体は小生も首肯するところなのですが、それだけに読後の戸惑いもありました。

 この点について、赤木氏に直接お話を伺ってみました。氏はだいぶ飲んでいるので、と断りつつ、慎重に言葉を選びつつお答えしてくださいました。ありがとうございます。
 で、やはり小生が考える程度のことは既に指摘している方もおられたのか、赤木氏としては自分についての話は次回作で書く予定だ、とのことでした。
 ではなぜこの本で書かなかったのか、ということを伺ったのですが、小生の聞き方が悪かったのか、ちょっと話がかみ合わなかった覚えがあります。
 更に幾つかお伺いしてみたところでは、このまとめはあくまでも小生の印象に基づくものですが、赤木氏はご自分について語ること自体に積極的ではない印象を受けました。そもそも他人とそういったことについて語り合うというか、情報交換をするような機会が余りなかったようです。

 『若者を見殺しにする国』では、「俗流若者論」の一例として、オタクへの不当なバッシングについて取り上げています。その論旨自体は小生もまったく同意するところですが、ただ本書全体の中での位置づけが良く分からないという感想も持ちました。これもおそらく、赤木氏自身の状況の記述が少ないため、オタクであることと団塊ジュニアの生き辛さとの関係が良く分からなかったのでしょう。
 で、赤木氏はゲームやアニメが好きだと書かれていますが、こういった趣味的な話題についても、周囲の人と話したりすることが、どうも決して多くは無かったようです。

 この辺の印象から話をまとめるのは些か乱暴であるとは思いますが、小生が感じた印象を率直に述べれば、赤木氏の(様な人の)苦しみそして欲求の多くは、「自分のような人間の言うことには誰も耳を傾けてくれない」という思いに起因するのではないか、ということです。簡単に言えばコミュニケーションの問題ですね。
 団塊ジュニアといってもみんながみんなフリーターになったわけではない、ではどういう人が貧乏くじを引かされたのかと考えれば、社会の不利な状況を補いうるであろう人的なネットワーク(血縁、地域、友人、などなど)との結びつきが弱い人ほどなりやすいんじゃないかと。もちろん小生は、「俗流若者論」的な、最近の若い者は“人間力”が低いからだ、とかそんな話をしたいわけじゃないですよ。昔ならば「自己責任」で済ませても大した問題じゃなかったかもしれませんが、現在の(赤木氏の世代以降の)場合はそうはいかないでしょう。人的なネットワークの形が変化しているからです。
 更にコミュニケーションの問題は、承認欲求の問題にも直結しているでしょう。人とのコミュニケーションなくして承認もないからです。だから逆に、何かの拍子でこれが失敗すると、コミュニケーションできない→自己承認できない→もっとコミュニケーションできない・・・という悪循環に陥り、脱却が難しくなってしまうのではないかと思います。で、その「何かの拍子」というのが、特に最近は当人ではどうしようもない状況で強いられた物であることが多いのではないかと考えられます。

 こう纏めてみると、赤木氏が「非モテ」の花見に来る必然性は大いにあると納得できます。「非モテ」もまたコミュニケーションと承認欲求の問題に他ならないわけで。また赤木氏の言論が話題を一定呼んだとしても、間々ディスコミュニケーションに陥ったり、攻撃性の強さゆえに反感を招いてしまうことも説明できそうです。
 赤木氏は、自分の求めているのは衣食住の保障という「生理的欲求」「安全の欲求」であって、他者との係わり合いから得られる「親和の欲求」「自我の欲求」ほど高次なものではないと述べておられますが(第6章)、それでは戦争になって名誉の戦死の方がマシ、という言葉は出てこないでしょう。実際、それに続いて「本当なら、生きたまま十分な自尊心を得られる生活を送りたい(p.211)」と書かれていますし。或いは、酒を酌み交わしジンギスカンを突きながらの山本夜羽音先生との談話中で、夜羽音先生が「今ある行政サービスは使い倒すべきだ」と発言したのに対し、赤木氏は「プライドが・・・」云々と仰っていました。
 さすがに「生理的欲求」第一というのは難民レベルの、とりあえず救済みたいな話であって、日本のこの問題では、一定以上の生活の安定と精神的な安定とは、かなり密接に関わっているのではないかと思うのです。小生はマズローという心理学者の説について何も知らないので、ちょっと頓珍漢なことを書いているかもしれませんが。

 以上の拙文で、小生は赤木氏の所説の瑕疵をあげつらって一時の快を貪ろうとするものでは決してありません。むしろ、例えば氷河期世代に対し何らかの職業訓練的なものを施す際に、彼らを抑圧的に「教育」する(例:海兵隊のハートマン軍曹)という、巷間ありがちな発想の問題点を認識できますし、また彼らの悩みを社会全体の問題として受け入れる上でも何がしかの知見を導けそうだと考えます。論点はまだいくらでも広がりそうですが、これ以上は小生よりも適任な方々が大勢おられるので、話はこの辺にしておきます。
 ただ小生が残念に思うのは、赤木氏の書物からここに達するまで、えらく回り道する必要があったということであります。

 というわけで、「希望は、戦争」という言葉から、満州国→大陸浪人なんかを思い浮かべてしまっていたのですが、だいぶ違っていたなあ、という話でした。
 で、赤木氏の「戦争」については、とても重要な話がまだあるので、次の機会に。
# by bokukoui | 2008-04-10 23:45 | 出来事 | Comments(9)

近況~154円(本日の相場)のパソコンの脚

 昨日はお誘いがあったのでお花見に行きました。
 どんな花見だったかは、機会があればそのうちに。

 以前書いたように、パソコンが故障したので買換を検討していたところ、憑かれた大学隠棲氏が、浮いている自作マシンがあると突如ドライブついでに拙宅まで持ってきて下さいました。もっとも東名高速で大渋滞に巻き込まれたとかで到着が深夜になり、セッティングなど一切なしで本体だけゴロンと置いていったのでありました。
 で、「ドライブ中震動で配線が外れたかも知れないので、中を開けて一応点検してから電源を入れるべし」とのお達しだったので、今日開けてみました。開け方を聞いていなかったので適当にやってみたところ、開けたついでに蓋に付いていた冷却ファンの結線が外れてしまい、元々何処に繋がっていたのか、直すのにえらく手間取りました。ついでに、開けてみてから原状を知らないので何処がおかしいのか分からないことに気がつきました。やはり今時、文系といってもパソコンについての一定の知識は必須と反省した次第でした。
 で、何とか元通りに直して設置・・・と思ったら、本体を支える4つの円柱状の脚のうち、一つが行方不明なことに気がつきました。幾ら捜しても発見できず、そういえば昨日、袋に収納した状態のまま床に置いたとき、何かガタガタ不安定だったような記憶が。緩んでいた脚もあったし、もしかするともっと前から脱落していたのかも知れません。なにせ入れてあった袋が底抜けてたし・・・。
 とりあえず何か似た形のものを代わりにスペーサーとして噛ませようとデスク周辺を見渡したところ、去年のアメリカ旅行の際に使い残した25セント硬貨一握りが目に付きました。大きさは脚と近く、6枚積み上げたところほぼ同じ高さになりました。かくて154円(本日終値で計算)で代用品ができました。

 もうちょっとパソコンに詳しくならんといかんなあ、と思った次第。
# by bokukoui | 2008-04-07 20:05 | 身辺些事 | Comments(3)

霊柩車の衰退

 急に勢い込んで、万事積極政策にしようとしたものの、やはり無理が祟ったのか数日ダウン。しかしまたこれで引き籠もっては元も子もないところであります。
 気を取り直してまた出かけるようにしましょう。

 前回の記事で自動車の話を書きましたが、自動車といえば、しばらく前に祖父が死去した際に感じたことを思い出しました。
 諸般の事情により、葬儀屋さんとの折衝に小生も同席せねばならず、いろいろ話を聞いたのですが、その際に霊柩車をどうするかという話がありました。

 で、霊柩車は葬儀の価格に応じて「格が上がる」のですが、一番安いものだとクラウンがベースで、高くなるとリンカーン、キャデラックとなっていったように思います(リンカーンとキャデラックのどっちが上だったかは失念)。昔は高級車としてアメ車の人気は高かったそうですが、今の日本では高級と言えばまず真っ先にドイツ車が浮かんできます。が、霊柩車業界ではアメリカ車が健在のようで。ちょこっと検索してみると、洋式霊柩車にはメルセデスのEクラスのステーションワゴンベースもあるそうですが、いわゆる霊柩車らしい霊柩車、宮型霊柩車のベースはアメ車中心のようです。
 どうしてアメ車が斯界で人気があるのかと葬儀屋に問うたのですが、残念ながら回答は得られませんでした。素人考えですが、霊柩車、殊に宮型霊柩車は、ベースとなる車のボディを一部切断し、そこにやたらと工作物を搭載するわけで、車体(シャーシ)の強度が求められそうです。その点で頑丈であるとか、足回りの許容重量が大きい(そのため改造していっぱい装飾をつけることができる)とか、そういう点で有利なのかな、と思います。スピードは出さないし長距離も走らないから、走行性能や燃費はあんまり問題ではなさそうだし。

 霊柩車と言えば井上章一『霊柩車の誕生』という有名な本がありますが、小生も葬儀屋との折衝後思わず読み返してしまいました。この本はとても面白いですが、あくまで葬送と意匠、民衆のキッチュの文化のお話なので、ベースの自動車についてはほとんど論じていません。もちろんテーマから言って必要ないんですが、しかし日本独自の葬送文化たる霊柩車を技術的に支えるには、アメリカ車のタフさが必要だったとするならば、なんだかちょっと面白い「日本独自の伝統」ってもんだな、と思います。
 で、小生は宮型霊柩車を使ってはどうかと提案したのですが、一言の下に却下されました。結局洋式のそれにしたのですが、葬儀屋曰く現在では9割方洋式なんだとか。全国的な傾向かどうかはよく分かりませんが、上掲井上著では葬儀に使われる霊柩車は宮型が中心であると述べていたことからすると、20年ばかりで結構大きく世の中変わったということになります。
 井上著の主張からすれば、民衆が作り上げたキッチュのデザインというところに霊柩車の面白さがあるというわけですが、とすれば、それが学術研究の対象になったという時点で、キッチュの力が衰えてはじめてしまったのかも知れませんね。
# by bokukoui | 2008-04-04 19:16 | 思い付き | Comments(8)

非モテを貫けばベンツを得ん~革非同・古澤書記長の公用車

 今日はガソリン・軽油の暫定税率期限切れ失効の日にふさわしい話題を、というわけでもないのですが。
 引きこもり生活が長すぎてネタが無いところ、近くお花見を開催するという毎度おなじみ革命的非モテ同盟・古澤書記長から、表題の件のごとき話題と画像をいただきましたので、有難く紹介させていただきます。バレンタインとホワイトデーの粉砕デモの時は、いろいろあったとはいえ記事書けなくて済みませんでした。

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# by bokukoui | 2008-04-01 23:07 | 出来事 | Comments(8)