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筆不精者の雑彙

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アニメ『プリンセス・プリンシパル』第5話「case7 Bullet & Blade's Ballad」における鉄道描写について


 このところのコロナ禍で、自宅から出ないでもエンタテイメントが楽しめるようにと、さまざまなコンテンツがネットで公開されています。有料だったものが無料開放される例も少なくなく、その一つが上に挙げたアニメ『プリンセス・プリンシパル』であります。(10日まで)
 このアニメは、設定協力・速水螺旋人先生ということで私も気になっていましたが(速水作品に関する当ブログの過去記事はこちらなどを参照)、放映当時は見る機会を逸していました。それを、この Hulu の無料放映を機に見た……わけではなくて、もうちょっと前から、バンダイチャンネルの見放題に入っていたことから見始めたのですが、凝った映像と設定、程よく錯綜しつつも説明しすぎない脚本で、飽きる暇なく視聴者を引き込む、まことに素晴らしい作品と楽しく見ています。
 ……というような賛辞は、ちょっと検索してもネットでいくらでも見つかりますので、あえて青臭いことを言えば、このアニメには「壁(隔てるもの)」という一貫したテーマがあり、それが物語の背骨となっているために、見るものを引き込む力強さがあるのだと私は思います。劇中に登場する「ロンドンの壁」がその象徴ですが、身分や民族を隔てる壁、そして心の壁もまた存在します。その壁を超えることができるのは――。必ずしも製作者の意図したことではないかもしれませんが、今日的なテーマでもあります。
 そんなわけで、一周見終わって感心し、今は各話に振られている case 番号順に二回目を見ているところです。

 で、このアニメは、いわゆるスチームパンクの世界観で、蒸気機関を重要な役者に据えており、登場する自動車も蒸気自動車だそうです。となると、鉄道趣味者としては蒸気機関車の登場も期待したいところなのですが……概してアニメでは(マンガでもそんな感じがしますが)、鉄道とりわけ蒸気機関車は重視されない傾向にある気がします。どうも他のメカ、兵器なり自動車なりスーパーロボットなりと比べて、業界人に愛されていないんじゃないかという気がしてしまうのですが……
 ところが、第5話「case7 Bullet & Blade's Ballad」は、まさしく鉄道回というか、最初から最後までほとんど列車が舞台という「神回」でした。列車で繰り広げられる大活劇、血沸き肉踊ります(あとメイド服)。その描写も見事で、ツイッター上で瞥見しただけですが、このような賛辞がいくつも目につきます。
 私もこれらのご意見にまったく賛同しますが、ただそこでマニアの血がむくむくと湧いてきまして(笑)、ちょっと感じた点を手元の本で調べてみたのでした。

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# by bokukoui | 2020-05-08 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Comments(3)

青木栄一先生を悼む

 大変残念なニュースに接しました。
 地理学者で、鉄道史の大家であり、海事史にも通じておられた、青木栄一先生が去る4日朝に亡くなられました。87歳でした。心からお悔やみ申し上げます。

 まだ2日しか経っておりませんので、ネット上でも追悼記事はあまり出ていないようですが、早いところではこのような記事が出ています。
 こちらの記事は短いものですが、国鉄分割民営化当時の青木先生の言説を紹介しており、短時間で(しかもコロナ禍で図書館が閉まっているのに)この発言を見つけて記事を書いたことには敬服します。

 さて、地理学者としての青木先生の業績は大変大きなものですが、青木先生の貢献は単に学界にとどまるものではありませんでした。子供向けの図鑑を監修され、一般向け(マニア向け)の記事を執筆され、多くの人びとに鉄道や船に関する知識を与えてくれました。青木先生ご自身が鉄道と海事の趣味人で、学問と趣味の懸け橋として大きな役割を果たされたと思います。
 本ブログでも、過去にいくつか青木先生の著作を紹介し、その学問の意義について、及ばずながら解説しています。


 十数年前の記事ばかりですが、青木先生の功績の一端を知る手掛かりにはなろうかと思います。

 さて、学問的な話は他に適任者もおられるでしょうし、上掲過去記事で述べてしまっていることもあるので、ここでは青木先生を追悼する意味で、個人的な経験を少しばかり書かせていただきます。

 私が青木先生の業績に触れた最初は、先生が監修された小学館の学習図鑑の『鉄道』と『船』でした。幼時の私は、この図鑑を繰り返し繰り返し読みふけったものです。そしてこれは間違いなく、その後の趣味と学問の起点となりました。同様の人はかなり多いだろうと思います。ある世代の鉄道趣味者や軍艦趣味者は、この図鑑を介して、いわばみな「青木栄一の弟子」といってもいいかもしれません。
 この図鑑も、青木先生の考えがいろいろと反映されています。この図鑑の構成は似ていて、まず歴史を紹介し、それから個別の車両なり艦船なりを列挙して、それから構造や運行システムなどの工学的な説明にまで及びます。この構成に青木先生の意図があり、古い図鑑は往々カタログみたいな感じだったらしいのですが、個別の車両なり艦船なりの知識にとどまらない、歴史などの広い視野を持っているところがそうなのです。これは子供の教育目的としても、たいへん優れた視点だったと思います。さすがは小学校教員養成の学芸大学の先生を長年務められたことはある、というところでしょうか。
 もっとも、その一方でこれらの図鑑には、今思えば結構マニアックな情報も載っていました。『船』には巻末に、世界の有名な船の略伝が載っているのですが、三笠や大和は分かるとして、ドイツ巡洋戦艦・デアフリンガーだとか、幕末の汽船・チューサンだとか、戦前のディーゼル貨物船・畿内丸だとか、えらい渋いチョイスなのです。ある時私は青木先生に、この選定基準について伺ったところ、先生はすましてこう仰いました――「僕の趣味だよ」と。

 とはいえ、図鑑を丹念に読む子供も、監修者の名前にはふつう注目しません。「青木栄一」という名前を意識するようになったのは、中学生になって鉄道雑誌を読むようになって以降でした。私の通っていた中高一貫校には、古い『鉄道ジャーナル』が大量にあり、私はそれを読み漁って鉄道趣味者として(研究者としても)基礎教養を身につけたのですが、その中でも私が次第に関心を持つようになった、鉄道の歴史(とりわけ私鉄の)の記事を数多く執筆されていたからです。同時に、ローカル線問題の記事も、地域研究ということでしばしば執筆されていました。
 そんな時期のことだったと思いますが、私は『世界の艦船』を読んでいました(世艦はあまり読んでいなくて、もっぱら増刊号を見ていました)。するとそこでも歴史記事を執筆している「青木栄一」という人がいます。なるほど、鉄道の青木栄一と船の青木栄一がいるんだな、とその時は思っていました。ずいぶん経ってから、肩書の「地理学者・学芸大学教授」が同じ事に気がつき、驚愕したのを今でもよく覚えています。え、これ同じ人なの? 鉄道でも船でも知ってるって、どんなにすごい人なんだろう?
 「鉄道の青木栄一」と「船の青木栄一」がいる、と思っていた人は私だけではないようですが、ちなみに同姓同名でいえば翻訳家の方がおられます。これは青木先生から伺った話ですが、あるとき出版社から身に覚えのない印税が振り込まれていて、確かめたら翻訳者の青木栄一氏と間違えて払われていた、ということがあったそうです。

 それから大学生になって、ふとした縁で青木先生(当時はもう駿河台大学の先生でした)が学芸大学時代からされていた自主ゼミ、読書会に出席することができるようになり、そこで私は青木先生の謦咳に身近に接することができました。それはかけがえのない私の財産になっていて、こんにち私が何とか大学教員となることができたには、先生のお蔭も大いにあると感じています。
 いやもう、実に直接的な話をすると、私が受けた院試の問題が「日本史における『地域』について述べよ」だったのですが、そこで私は青木先生から自主ゼミの際に聞いた話をもとに答案をこしらえ、うまうまと院生になりおおせたのですから。ちなみに青木先生のお話とは、「地域という言葉は学問によって使う意味が異なる。歴史学の人なんかは『東アジア地域』とか大きい意味に使うが、地理学では村落などより身近な領域を『地域』という」といったことでした。そこで私は、「地域とは斯様に使われ方に幅のある概念だが、これはどちらの方向でも国民国家単位の歴史観を相対化する可能性を持っているのであって…」とかなんとか書いた覚えがあります。

 青木先生は学問自体が地理から歴史や社会や技術に広がる越境的な存在であったと同時に、学問と趣味の垣根を超えて両者の水準を高められた、そんな類例のない業績を残されたと感じます。いちど自主ゼミ一同で夏休みにゼミ旅行に行ったのですが、現地集合というので集まってみると、青木先生の薄くなられた頭と腕が日焼けして真っ赤っかだったのです。先生どうされたんで? と伺うと、一日中線路端で鉄道写真を撮られていたそうで、いつまでも「鉄道少年」の心を忘れておられなかったのだな、と感じたことをよく覚えています。
 まあ鉄道史は概して、青木先生に限らず趣味から学問へと昇華させた先生が多いところですが、とりわけ青木先生と同世代で、すでに物故された原田勝正先生や中川浩一先生が、その代表的な存在だったといえます。これらの先生方の功績は、半世紀以上前はマルクス主義的な理論の枠組を重視するあまり、個別の事例を強引に枠に当てはめてしまったり、個別事例の掘り下げが浅かったりする例がままあったのを、マニア的探究心を学問に昇華させることで乗り越え、詳細な事実の実証に基づいた研究へと発展させたことにあります。その他の学問も次第にそうなっていきましたが、そういった方向性を、先取りしていたと思うのです。

 急いで注釈を付け加えておきますが、だからと言ってマルクスなり何なりの理論的枠組みが無意味ということはありませんし、そういう枠組を意識した研究が無駄なわけではありません。むしろ今は、実証の水準は上がって精密になったけど、それで世界をどう描くの?という視点が欠けてはいないか、という批判が唱えられるようになっています。どちらかだけでもいけないのです。青木先生の時代はいわば、事実を精密に調べる面が不足しており、それを乗り越える先導者の役割を果たされた、というわけで、後続の私たちは、その業績を受け継いで、今度は枠組にも目を配る必要が出てきた、ということなのです。
 先に挙げたブログの書評でそれなりに詳しく書いたつもりですが、青木先生は一時地理学界を風靡したという計量地理学を極めて厳しく批判されていました。個別の事例をちゃんと見ず、数式いじりばかりしているというのです。実際、それで計量地理学は「崩壊」してしまっているそうです。後年になってもその研究姿勢は変わらず、丹念な事例の収集と分析こそが大事であると繰り返しておられました。実証は精密だがそれ以上の視野の広がりがないのではないか、といった近年の批判に対しても、まず前提としての実証を強調しておられた印象がありますが、この辺は近年の批判とはややかみ合っていなかった印象も、ないではないですが…。

 ともあれ、青木先生から学んだことは数多いのですが、もっとも大事なことはおそらく、学問にとどまらず、自分が好きなことに全力を投入する、そんな生き方であったと、はるかに及ばずながらつくづく感じるのです。その結果として、青木先生のなされたことは、趣味者と研究者の、もっとも見事で幸せな統合であり、その統合の例として他に追随を許さないものであったと痛感します。そういった、趣味の可能性を示された点でも、大きな功績があったと考えます。
 鉄道趣味も軍艦趣味も、本来は自立したマニアの世界だったと思うのですが、ここ20年ばかり「オタク」という言葉の濫用の結果、マンガやアニメやゲームを好む層の、いわば「周縁」へと追いやられてしまったのではないか、その結果として知識を集積する鉄道や船の趣味も、コンテンツの消費へと堕して(敢えてこう書きますが)しまったのではないか、どうも私は最近、そのように感じています。そんな時代だからこそ、改めて青木先生の業績を振り返り、示された「趣味」の可能性、博物学的な姿勢というものを、見直す必要と意義があるのではないか、そう思わずにはいられないのです。

 青木先生の思い出話は尽きませんが、ひとつどうしても忘れられないことを書いておきます。先生のお弟子さんで交通博物館学芸員だった岸由一郎さんが、岩手・宮城内陸地震で亡くなられた(当ブログ関連記事その1その2)直後に、私は先生に自主ゼミの用で電話をしたのですが、そこで先生が岸さんの遭難について一言、

 「うむ……残念だ!」

 とおっしゃった声は、まさに心の一番深い底から吐き出された悲しみに満ちていて、今も私の耳の中にこだましています。

 青木先生は残念ながら晩年は体調を崩され、私としては博士論文をお目にかけることができなかったのは残念でなりません。今はただ、自分の研究を進めることで、ご恩に報いなければと思うばかりです。

※私のツイッターの6日7日分には、青木先生の訃報への反響を集めてありますので、関心のある方はご覧ください。



# by bokukoui | 2020-05-06 23:59 | 鉄道(その他) | Comments(0)

今夜、すべてのスマホで

 新型コロナウイルス禍で世界的に騒ぎになっていますが、そのどさくさに紛れて、というと聞こえが悪いですけれど、このように人びとの心が移ろいやすい時こそ、今起こっていることをじっくり考えなおすことの意味も小さくないと私は思います。
 というわけで、先月のひところネット上で話題になったけど、すでに流されてしまいつつありそうな話題について、備忘を兼ねて。

 先月、香川県で、子どものゲームやネット依存を防ぐことを眼目とした条例が制定され、本日4月1日より施行されることになりました。肝心の条例の成文が、香川県のサイトを検索しても見つからないのですが、香川県ネット・ゲーム依存症対策条例(仮称)(素案)というのが見つかったのでリンクしておきます。これが県議会で議論したのちの案らしいので、成文とほぼ同一とみてよいでしょう。


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# by bokukoui | 2020-04-01 23:45 | 時事漫言 | Comments(3)

自粛はいつから要請されるようになったのか

 新型コロナウイルスで世の中騒がしく、小中高校の休校だの各種イベントの中止だの、いろいろと影響が広がっています。果たして小中高の全国的な休校までする必要があるのか、かなり疑問ではありますが、そういった「対策」の一環として、例えば大規模イベントのほか、ビュッフェ形式の食事であるとか、スポーツジムの影響であるとか、さまざまなものが「自粛要請」されています。
 これは考えてみれば不思議な言葉で、「自粛」という言葉を辞書で引いてみると、

「自分から進んで、行いや態度を慎むこと。」

 という定義が示されます。「自分から進んで」というのがポイントで、だから「自」粛なのですね。
 ところが、「要請」というのをこれまた辞書で引くと、


 となります。
 「自分でから進んでやる」ように、他者が「強く願い求める」というと、自主的なんだか命令なんだか、はなはだあいまいになってきます。別に「なるべく控えるように要請」とか、「遠慮してほしいと要請」とか、もっと論理的な筋が通って、かつ同じ意味の言葉はありそうなのに。この言葉は、「自粛」という言葉で相手を立てているようにも見えて、実際のところは相手の自主性を勝手に「当然そうするよね」と決めつけているような、危うさもはらんでいるように感じられるのです。

 というところでふと思ったのですが、この「自粛要請」という言葉、いつから使われるようになったのでしょう?
 こういう時に便利なのが、神戸大学の新聞記事文庫で、戦前の新聞記事の膨大なスクラップを全文デジタル化した上、誰でもネットで利用可能という太っ腹なものです。私も研究で常々お世話になっており、ある時親戚の神戸大学卒業生に会ったので「神戸には足を向けて寝られない」とこのことを言ったら、「え、そんなのあるんですか」といわれました(苦笑)。
 てなわけで早速、「自粛要請」で検索……あれ、一件もない! 「自粛を要請」ではどうか……やはりありません。これはどうも、戦前には使われていなかった言葉のようです。戦前は「自粛要請」などと回りくどいことをいわず、強権的に命令して済ませていた……というわけでもないでしょうが。

 そこで私は大学へ赴き、図書館の契約している新聞記事データベースを調べてみました。まず朝日新聞を見てみると、1953年10月11日付朝刊の「小麦粉価格抑制へ 農林省、業界に自粛要請」という記事の見出しが一番古いもののようです。
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 敗戦からようやく独立を回復した頃の記事ですが、食糧難はまだ解決されたとは言えない時代を反映した記事ですね。これは業界の自主規制をうながす、という文脈で、こういった「行政指導」自体は昔からあったものですが、戦後になって「自粛要請」という四字熟語になったもののようです。
 もう一つ、読売新聞の例を見てみましょう。こちらでも、見つけられた中で最古の「自粛要請」は、やはり独立回復してそれほど経っていない、1954年4月4日付朝刊の「預金特利に自粛要請 大蔵省」という記事でした。
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 これは、銀行が高い金利を特定の大企業などにつけていたのを自粛させるもので、護送船団方式の走りと位置付けられましょうか。
 朝日新聞のデータベースで「自粛要請」を検索した、年代順の古い結果はこんな感じです。
自粛はいつから要請されるようになったのか_f0030574_18401495.jpg
 用例を見ると、経済的な問題で業界に「自粛を要請する」とか、国際問題で間接的に要望するとか、そういった場合が主なようです。これがいつ、現在のように国民一般へも使われるようになったか、それも一つの論点になりそうです。

 ところで、朝日新聞のデータベースはきっち検索ワードだけを選りだすようですが、読売のデータベースは関連するものも含むようです(悪く言えばノイズも多い)。なので、「自粛要請」で検索しても、そのワードが入っていない記事が出てくることもあるのですが、そこで見ると要請ではなく「自粛を要望」という例が散見されます。はて、自粛要請は戦後の表現でも、「自粛要望」だったらもっと古いのがあるのか? と読売新聞のデータベースで検索したところ(朝日のデータベースはけしからんことに、私が使っている図書館では戦前分の契約をしていないのです)、いちばん古い例は1938年6月18日付朝刊であることが判明しました。
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 記事の見出しが「けふ早大新聞号外で学生の自粛要望 大隈会館開放を求む」です。これは右側の写真付き記事と一体で読まないと意味が分からないもので、日中戦争が泥沼化しつつあった1938年、当時の警視総監・安倍源基(写真の人物)が、「学生どもは『時局認識』が足らん」として、繁華街などでうろついている学生をしょっぴきまくった「不良狩り」をやっていたのが背景にあります。その標的にされた早稲田大学の学生が、警察はやりすぎだと反発して集会を開き、大学当局の対応を求めると同時に、学生自身も行動を慎むように、として「自粛を要望」したということのようです。なるほど、これならば「自粛を要望」も意味が通ります。学生たちが、自分たちの行動について慎もうと申し合わせたのですから。
 それにしても、安倍源基といえば昭和初期には「赤狩り」で名を馳せた人物です。赤を狩りつくしてしまったので、戦時下を口実に学生を取り締まってみたのでしょうか。それに対し、早稲田の学生が団結して対抗しているのは、今日の状況を思うと、その精神に頭の下がる思いです。もっともこれは、それだけ当時の大学生が少数のエリートであり、特権意識も強かったということの反面でもあります。大多数の民衆には、大学は縁遠いものでした。だからこそ安倍は、「学生狩り」をやることがむしろ多数の支持を得られる、と踏んだのかもしれません。

 とまあ、世間が騒ぎになっている時こそ、ふと当たり前のように使っている言葉を見つめなおしてみるのも、多少の意義があるのではないかと思います。焦ってトイレットペーパーを買いに走ったりしないで済む、くらいの効用はありそうです。

# by bokukoui | 2020-03-04 18:47 | 時事漫言 | Comments(2)

渋谷駅頭のデハ5001号、秋田県へ移設

 このブログで2006年の設置以来断続的に取り上げている、渋谷駅頭のデハ5001号のことですが、大きな動きが報じられました。


 なんと、はるか秋田県は大館市に移設されるというのです。

 旧デハ5000系は東急線を引退してから、長野や静岡、福島に熊本など全国各地で活躍しましたが、秋田には縁がありません(そもそも秋田県に電化私鉄は現存しません)。ハチ公の出身地という関係はありますが、ハチ公とデハ5000の関係はありません(ハチ公が死んでずっと経ってから5000系ができました)。正直、取ってつけたような話だとは思います。

 とはいえ、このところ渋谷は「百年に一度の再開発」として大々的な工事が行われており、銀座線渋谷駅も移転しましたし、東急東横店もこの3月で閉店するということです。そんな再開発を取り上げたメディアも多いのですが、それらを瞥見した印象では、その再開発後にデハ5001をどうするのかという話はまるで出てきていないようでした。なので私は、この再開発の結果として、そもそもの発端から東急車輛側の「厄介払い」的色彩があり、十年以上見てきても渋谷区がどう扱うのかまったく定見が無かったとしか言いようがない、このデハ5001は、撤去処分されてしまうのではないかと懸念していました。

 その予想からすれば、一応身の振り方が考えられたというのはホッとすべきことではありますが、渋谷区がろくに活用法を考えなかったあげく、遠陬(というといささか大館には失礼ですが)の地に追いやってしまうのは、これまた「厄介払い」の印象を免れず、日本鉄道史上画期的なこの車両の価値を、渋谷区も東急もついぞ認識せぬままであったという悲しい事実は、変わらないといわざるを得ません。

 当ブログも、諸事情でデハ5001のみならずブログの更新が滞ってばかりで、申し訳ない限りです。実は昨年にも、上京の折にデハ5001を撮影していたのですが、日々の仕事などにかまけて、ブログに掲載できないままでした。今回の報道を受け、とりいそぎ昨年の撮影結果をアップしておきます。

→今日の東急デハ5001号の状況(75)


 今後の予定は、上掲記事によると、
 「青ガエル」は今後、2020年5月下旬から6月上旬にかけて、渋谷駅ハチ公前広場から移設。7月より、大館市観光交流施設「秋田犬の里」芝生広場にて、「忠犬ハチ公」を中心にした渋谷と大館の歴史に関する展示をしながら、施設来場者の休憩場所として使用する計画だそうです。

 渋谷区では、「『忠犬ハチ公』像と共に渋谷の象徴となっている『青ガエル』移設により、大館市との繋がりを強化し、同市の『忠犬ハチ公のふる里』としての知名度を高めると共に、さらなる観光客の誘致に繋がること」を期待しているといいます。

だそうです。

 長年デハ5001を見てきた当ブログとしては、可能な限り移転についても見守り、秋田へも調査に行くつもりです。日本鉄道史における「負の歴史」を将来にとどめるために。



# by bokukoui | 2020-02-14 16:51 | [特設]東急デハ5001号問題 | Comments(1)